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「でも、本当に嫌な日だってあるだろ?」
「枕なんかに頼らなくたって、子どもじゃないんだから、そのときは一撃食らわせてやりますよ」
「そりゃあ頼もしいな」
子どもじゃないなら、閉じているドアをノックして一緒に寝たいと伝えるくらいすればいい。それができない男に偉そうなことを言われたところで、羽多野としては苦笑するだけだ。
口先では威勢が良い割に小心なのが栄。肝心なときに限って意思表示できずに無理をする。
改めて、自分たちはまるで似ていないと思う。
多くのものを持って生まれてきたからこそ、栄は失敗への警戒心が強い。何かを失うことを過剰に恐れては身動きがとれなくなる。
対照的に、人生のほとんどを満たされなさを抱えて過ごしてきた羽多野は貪欲だ。欲しいものが手の中にあっても、まだまだ足りない気がしていつだって飢餓感に苛まれている。
噛み合わないからぶつかるし、噛み合わないから歩み寄る。ちょっとしたことで一喜一憂しながら、それでも生活は続く。続くのだと、祈るしかない。
「それにしても、喉がからからだな。君も水いる?」
やっぱりウイスキーで喉の渇きは癒やせない。冷蔵庫からボトルを持ってこようと、シーツで乱雑に下半身を拭ってから下着だけ身につけ羽多野はベッドを降りる。
「欲しいです」
汗に唾液に精液に、もしかしたら涙だって搾り取られたかもしれない栄は素直にうなずいた。
ついでに風呂の準備をしようと立ち寄ったバスルームは、玄関同様ひどい有様だった。
羽多野の存在を知られたくない栄は、長尾にトイレを借りたいと言われてから慌てて「同居人の痕跡」を消し去ろうとした。
洗面台に羽多野の歯ブラシは見当たらない。趣味の違うふたりがバラバラに使っているローションや整髪料は選別する間がなくまとめて取り去られてしまったのか、棚には不自然な空白が目立つ。引越直後でもあるまいし、勘の良い人間ならばむしろこの状況を不審がりそうだ。
むしろ背景を察して身を引いてくれるならばありがたいのだが——最後の最後まで粘っていたところからすると、残念ながらあの男は相当に鈍感なようだ。
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