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バスタブまでは注意が向かなかったのか、石鹸置きの隣でひっそり身を寄せ合っている二羽のアヒル人形を横目にお湯のバルブをひねってから、羽多野はリビングへ向かう。
バスルームから排除されたあれこれが詰め込まれた袋の横を通り過ぎ、冷蔵庫から水を二本。そこでふと、飲食料品が入ったストッカーの扉が開いたままになっていることに気づいた。
「あれ?」
よく見ると、蒸留酒の瓶が一本消えている。しかも欠けているのはアイルランド人の同僚が帰省ついでに買ってきてくれた貴重な一本だ。
「おい、どういうことだ」
寝室に戻るなり、羽多野は栄を問い詰めた。日本食材のお礼にと長尾に何かを渡しているのは聞こえていたが、まさか自分のウイスキーが差し出されているとは思わなかった。
「大事なのはクローゼットに隠してるみたいだから、あっちのは一本くらい構わないだろうと思って」
一切悪びれずに栄はうそぶく。だが、あの棚の蒸留酒は左と右に分けてあって、右側にはそこそこ大事な酒が置いてあったのだ。几帳面な彼がそのことに気づかないはずがない。
長尾に渡したのが、同僚が地元の伝手で入手してくれた貴重な酒であることを訴える羽多野に、栄は最終的にはため息で応じた。
「……羽多野さん、ケチな男はみっともないですよ」
そして、続ける。
「あれくらいのもの渡さなきゃ、借りができて飲みや食事を断りづらくなるでしょう。あなた、俺が長尾さんと飯に行くの嫌なんでしょう? だったら安い代償だと思いませんか?」
そう言ってふふんと鼻で笑う姿は、傲慢で高慢な、絶好調の谷口栄そのものだった。
セックスの頻度については決定権を譲っているにもかかわらず、疲れたとかその気じゃないとか文句ばかり。かといって先回りして自制したら「余計な気を遣うな」。日々振り回されてばかりだが——この様子だと、ひとまず今日のところは王子のご機嫌回復には成功したようだ。
だとすれば、酒の一本くらい代償として潔く捧げよう。同僚には、自分で飲んだ振りをしてネットで検索した感想を伝えればいい。
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