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「俺なんか特に英語が苦手ですから。今日もほら、これ」
栄が胸ポケットからレコーダーを取り出して見せると、長尾は笑う。
「完璧にやろうとするときりがないですし、大事なとこだけでいいと思いますよ。まあ、慣れるまでは緊張するでしょうし、気晴らしに今度飲みに行きましょう」
「ええ、じゃあ来週あたりにでも」
手を振って長尾と別れエレベーターに乗り込むとため息をひとつ。
冗談めかした自虐のふりをして、栄の憂鬱はとても笑いごとでは済まないくらいに深刻だ。手の中のレコーダーには一時間分の録音。面会相手の流れるような英語をその場で完璧に聞き取ることは不可能だった。
地方経済対策というバックグラウンドのある分野についての話だったので流れはぎりぎり把握できたが、ろくな質問や切り返しもできず相手はきっと栄のことを馬鹿な奴だと思っただろう。必死に取ったメモにも断片的に聞き取れたキーワードが乱雑に並ぶだけ。
面会結果を日本側に報告するには、録音内容を聞き返してもう少し詳細を理解する必要がある。だが、同様の作業を二ヶ月間繰り返すうちに栄は学んでいる——いくら録音したところで、わからないものは百回聞いてもわからないのだと。
そういうときどうするかというと、明らかに重要でないと判断できる部分については切り捨てる。重要そうな内容であれば恥を忍んで英語の得意な同僚や、現地スタッフに聞くことになる。
赴任から日が浅いこともあり仕事の内容に関する質問ならばいくらだってできるのだが、ただ単に「言葉が聞き取れなかった」という理由で周囲を頼ることは、栄の性格的に大きな勇気を必要とする。万事において器用なタイプだったので、これまで人の助けなど求めなくたって大抵のことは自分で解決しながらやってきたのだ。
プライドが高く自分にも他人にも厳しい。人に頭を下げることが苦手。それが欠点であることは嫌というほど理解している。わかっているけれど三十年かけて培ってきた性格は簡単には変えられない。
「お帰りなさい谷口さん。どうでした? あの先生いい人だったでしょう」
暗さを顔に出さないようにしながら所属する経済部のオフィスに戻ると、現地採用の秘書であるトーマスがニコニコしながら流暢な日本語で栄を出迎える。
「うん、アポ取りありがとう。事前に依頼内容も伝えておいてくれたおかげで助かったよ」
そう言いながら自分の笑顔が引きつっていないか、栄は内心気にしている。
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