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10
長くラバウルにいると、スコールと呼ばれる激しい通り雨に見舞われることが多々ある。
降り始めの地面を抉るように強く叩き付ける雨の粒により砂や灰が巻き上がり視界は烟るし泥跳ねも酷い。
支給された軍靴は一人何足もあるわけではなく、防水性も高くないからあっという間に靴の中に水が侵食してきて足元も不快なことこの上ない。
けれどだからと言って敵は待ってはくれないし、司令部も休ませてはくれない。
搭乗割は皆平等に割り当てられていて、今日の由良は豪雨の中での離陸になりそうだ。
「うわー、雨酷えな」
「これじゃロクに敵機なんて見えないんじゃないのか」
バチャバチャと泥を跳ねかしながら、搭乗員たちは滑走路を走り機体のもとへ向かう。
雨に濡れた状態での長時間の飛行は平時と比べて濡れた不快感や冷えゆく体温から気力も体力も奪っていくため、大抵の搭乗員は離陸と降雨が被ると皆一様に文句を言うのが常だ。
けれど由良は違った。
雲一つない青すぎる空と海を見るよりも、どんよりと澱んだ灰色の景色は不思議と由良を心穏やかにする。
「どこかの馬鹿と違ってな……」
足掛けを使い軽やかに操縦席に飛び乗った由良はさっさと風防を閉め呟いた。雨は嫌いなわけではないが濡れるのは嫌いだ。
こうして風防越しに灰色一色の世界を見ているとどんどん心が凪いでいく。太陽がギラギラと照りつける青い空は元気が良すぎて舟人のようだから由良は気に入らない。そもそも暑いのが苦手な由良だから、痛いぐらいに肌を焼く太陽など雨雲で隠れていてくれるに越したことはない。
深海でしか息の出来ない魚のように、由良は小さな灰色の世界でゆっくりと深呼吸をした。
いつかの任務の時とは打って変わって、頭を占めているのは敵機を撃墜することだけだ。真っ直ぐに目的を達成することしか思考にない状態は酷く心地良い。知らず口元が柔らかくなるのに気付かぬまま、由良はエンジンの出力を上げていく。
由良が近づいた時点で怯えたように小さく悲鳴を上げた小柄な整備員が、由良が僅かに微笑むのを見て一瞬目を丸くした。その整備員は何か言いたげに口元を動かしたが、しかし目線が合うことを恐れたのかそそくさと機体から離れていった。
雨が降っている時に離陸するのは普段と全く違う景色を由良に見せてくれる。
機体が動き出すとそれまで点々と風防に打ち付けていた雨粒は、速度が上がるにつれて次第に流線形の機体に沿って流れていくように雨の線を描いていく。雨雲の広がる黒灰色の空の中、その雫は白く光り幾筋もの線となる。操縦席に座っているとまるでその光の線の中に飛び込んでいくような眼前の光景は、異空間に向かおうとでもしていると錯覚するぐらい非日常的だ。
側面の窓を流れる雨粒も葉脈のように幾筋もの細い川となり流れていき、機体が完全に離陸した頃には粉のように小さな粒となって風防を滑るようにして消えていく。
地上にいる限り見ることが出来ず、そして雨の中戦闘機を操れる手腕が無くてもまた見ることは出来ない。
それはあまりに過酷で、そして泣きたいぐらい綺麗な光景だ。
土砂降りの中、次々に離陸していく零戦は濡れた機体を艶々と光らせながら雨など意に介さないように軽快に曇天の中を突き進んでいく。
眼科の広漠な海は今日は鼠一色で、時折白波を上げている。空も海も灰に染まった世界はどこか懐かしさを由良に与える。
黙々と先導機に従い目標地点に近づいた時、すぐ脇を飛んでいた零戦が突然真っ赤な炎を上げた。動揺したように隊列が崩れたと思うと同時に、ダダダダッと機銃掃射の音が響く。
敵の奇襲だ。
由良は瞬時に隊列から離れるように機体をグンと上昇させた。先ほどまで由良のいた場所にも閃光のように機銃の弾が飛んでいく。
「クソッ」
あちこちで爆発音と黒煙が上がり、不意打ちに耐えきれずにまともに攻撃を受けた数機の零戦が墜ちていく。
体勢を立て直し、由良は被弾して逃げ帰る零戦を追いかける敵機に機銃を放った。
「テメーの相手は俺だ」
先ほどまで穏やかに凪いでいた由良の全身がカッカと熱くなる。血湧き肉躍るとは良く言ったもので、まさしく獲物に対峙した好戦的な獣のように由良の目は鋭く光り口元は残忍な弧を描いていく。
目まぐるしく交差する機銃の中をすり抜けて、敵機の尾翼に数メートルのところまで近づき容赦なく弾を浴びせていく。いつの間にか追う者と追われる者が変わっていることに気付いていなかった敵は、真ん中から尾翼を折られて体勢を大きく崩し海に向かって墜ちていった。それを見届ける間もなく、背後から放たれた機銃を交わすように由良は機首を目一杯引き背面飛行の体勢を取るとそのまま敵機の正面から機関砲を思いきり浴びせた。
雨粒を纏った風防越しに敵の操縦員が大きく口を開けたのが見えた瞬間、ドォン!と腹に響く爆音と共に血のように赤い炎が噴き上がる。
通り過ぎ様にグルン、と機体の上下を元に戻すとふわっと浮いた内臓が落ちてくるようで僅かな吐き気を由良に催させる。唇を噛み締めてそれをやり過ごし、再び大きく機体を旋回させながら手近なグラマンの発動機目がけて機銃を放ち再び派手な爆炎を灰色の空に立ち上らせる。
「ハッ、奇襲のわりにたかが知れてんな」
視界の端で二機の零戦に追われるグラマンが墜ちていくのを見ながら由良は嘲笑交じりに呟いた。
ああ、可笑しくて仕方ない。挑んできては墜ちていく敵の操縦員の力量の無さが、今の由良にはとても滑稽に映っていた。
すると突如遠雷のように重々しい音が辺りに響いた。遠雷だと思ったそれは徐々に熊蜂の羽音のような重低音を響かせ近づいてくる。雷ではない。敵の増援だ。
難を逃れた先導機に従うように数機の零戦が基地へと引き返していく。上官の乗った零戦が近くの零戦を集め隊列を組み直し、手信号で次々に「撤収」だと告げている。
由良の乗った零戦とすれ違い様に味方の操縦員たちが「引き返せ」と合図するのを見て、由良の上がった口角が下がっていった。
なんだ、せっかく調子が良かったのに勿体無い。
まさしく水を差されたとはこの事だ。増援部隊と合流するようにやはり引き返していく敵機の内、三機のグラマンが少し離れた位置から必死に仲間の後を追いかけているのを見つけ、由良は引き戻していた機首を再び当初の進行方向へと向けた。
味方機とだいぶ離れた三機のグラマンはまさに群れから逸れた羊そのものだ。絶好の獲物を見つけて由良の目は再び獰猛な光を宿した。
一人離れていく由良の援護を買って出たのか、もう一機の零戦も後を追いかけ速度を上げ着いてくるのを眦に捉えて、一番近くにいたグラマンへ照準を合わせる。
新米の操縦員なのだろうか、追われる自らの機体を内側に内側にと徐々に旋回させていくのは由良にとって都合が良過ぎた。難なく機銃で燃料タンクを撃ち抜くと真っ赤な炎と黒煙に包まれた機体は鉛のような鈍色の海に向かって墜ちて行った。
高度を上げた由良は次の獲物へと機首を向ける。かなり速度を出して由良たちを撒こうとしている一機に狙いを定めると、にわかに風防を開け後ろに着けていた仲間の零戦機へ向けて叫んだ。
「俺の獲物はアイツだ!貴様はもう一機を追えッ!」
突如由良が風防を開けたため、何事かとすぐさま同じように風防を開けた搭乗員はかろうじて由良の言っていることを聞き取った。
「わかった!」
その叫び声を背で受けて由良は風防を素早く閉じてグングンと機体を上昇させていく。急激に高度を上げるとその分肺から空気が抜けていくようで胸が重く圧迫される。その不快感をやり過ごすようにグッと唇を噛み締めると薄らと血の味がした。その血の味に興奮したように由良の瞳はギラギラと輝きを放つ。その残忍な輝きは紛れもなく捕食者の色をしている。
「逃がすかよ」
敵機の下から突っ込むように迫りながらぶつかる寸前に機体を捻り脅しをかけると、不意打ちを食らった敵機はぐらりと大きく体勢を崩した。
そのまま無理な角度で機体を旋回させ機銃掃射の準備をすると、機体のどこかがミシッと小さな悲鳴を上げた。
無理な飛行をして機体を損傷させることなど想定内だ。空中分解しなければそれでいい。たとえ空中分解したとしたらギリギリまで敵機に突っ込んで巻き添えを狙うのが由良の覚悟だ。
だから敵の正面に踊り出るようにしてプロペラへ向け機関砲を撃ち放つ。鼻先から突っ込んでくるような無茶な飛び方をする操縦員など、この広い大空を探しても由良ぐらいだろう。
だから予想もしない攻撃手法に敵は恐怖の表情を浮かべた。満足そうに口角を持ち上げた由良の目の前でその姿は一瞬で炎に撒かれあっという間に視界から消えていった。
味方はどうなったかと由良が来た方へと機体の向きを戻すと、少し下方に基地の方向へと進んでいる一機の零戦がいた。高度を下げ横並びになると、操縦員は機銃の故障を手信号で伝えてきた。つまり一機逃げ帰らせたということだ。
「張り合いねえな……」
なんだ、俺より先に撃墜して戻っているのかと思ったら違うのか。
由良のつまらなさそうな顔を見る間もなく、味方の零戦機は速度を上げて基地へと帰っていく。後ろからは援軍が迫っているからだ。不利だと判断したならすぐに離脱し戦線を立て直すのが常識だ。上官は「敵に尾を巻き逃げ帰るなど、日本男児の名を語る資格もない!」と言うが、機銃が撃てなければ撃たれて終いだ。
だから優秀な操縦員ほど引き際を見極めるのが上手い。由良もそのことは理解していたが、感情がそうさせることを良しとしなかった。
逃げ帰った敵機は既に援軍の方が近いというぐらい離れているだろう。だから一機逃したことにほぞを噛みつつ、由良も大人しく基地へと戻ることにした。
味方機は既に由良の視界から消えている。先ほどまであれだけ騒々しかった大空に響くのは今は由良の操縦する零戦の音だけだ。
揺れる機体の中にはエンジン音やプロペラの音が響いている。けれど由良にはまるで静寂の只中にいるように思われた。
敵も味方もいない果てしなく広がる孤独な灰色の中で、鋭く開いていた由良の瞳孔が緩やかに解けていく。
一機でも多くの敵を撃ち墜としたい、という激しい欲望と同時に、このまま永遠に飛び続けていたい、という叶わぬ願いもまた由良の心を占める感情だった。
「……」
このままどこまでも飛んで行きたい。その先にはただひたすらに灰色で音のない誰もいない孤独な世界があるといい。世界の果ての墓場のような場所で、ただ身を横たえてそのまま静かに息を引き取れたら。
それは誰にも知られることがなく、夜明け前の一番暗くて静かなひと時のようにひっそりとして、しかし決して消えることのない由良の魂からの希求だった。
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