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一機置いていかれるようにして取り残された(というより自ら最後まで残った)由良だが、百海里程進んだところで耳に嫌な鳴動が響いてきた。 グラマンのエンジン音だ。 「クソ、追いつかれたか……」 逃げる敵を追いかけることに夢中になり、相手の援軍がどの程度まで迫っていたか把握しきれていなかった己に腹を立てて由良は飛行速度を上げた。 幸いというべきかスコールをもたらす積乱雲の赤子のような薄雲が進行方向に漂い始めている。 自らを隠すように雲の中に向け高度を下げると途端に一面真白い靄に包まれた。 風や戦闘機のプロペラにかき回されて時折薄くなった雲の隙間が視界を過ぎ去って行くことで、ようやく自分が前に進んでいるのだと認識できる。 煙か靄か、実体などなさそうなそれに機体がガタガタと左右に揺さぶられ操縦桿を握る腕に力がこもった。 眼前は白い闇に覆われて計器の数値がなければ自分がどこを飛んでいるのかなんてとっくにわからなくなっている。 気流の乱れに機体が揺れ、ふわりと内臓が浮くような不快な感覚が数度由良を襲う。 それを顔を顰めてやり過ごし敵機を撒くようにと雲の中ひたすらに機体を進めていく。 好戦的な由良ではあるが、さすがにグラマン機の大群とやり合おうと思う程無謀ではない。見つかってくれるなよ。という願いも虚しく、雲を切り裂き零戦を掠るように銃弾が視界を通過していった。 舌打ちをして更に雲の密度が高い方へと素早く機体を向けると、先程まで由良の零戦が飛んでいた場所に複数の機銃が撃ち込まれている。 撒き切れなかった悔しさと、突如訪れた孤立無援の緊張感で由良はグッと唇を噛み締めた。 ダダダダッと連続する機銃音から相手が数機いることが分かる。問題は実際に何機いるかだ。こちらは追われる側でしかも単座。後ろを振り返る余裕もなく、機銃とエンジン音の大きさから推測しなければならない。 三機は確実だ。それ以上ならもう腹を括るしかない。 徐々に速度を落としていき敵機との距離を縮めていく。一か八か、ほとんど勘で由良は突如操縦桿を思い切り引き機体を急上昇させた。 「グッ……!」 重力加速度が由良の身体を押し潰すように襲うが、顔を顰めてそれをなんとかやり過ごす。真下を通過して行ったグラマンの上を並走するように飛び、そして風防を射抜く位置につけると同時に由良は機銃を掃射した。 突然の予測しない位置からの攻撃を受けたグラマンの風防は撃ち砕かれ、中にいた兵士の身体は真っ赤に染まりなす術もなく墜ちていく。 しかし由良の攻撃を皮切りに、近くを飛んでいた別のグラマンが零戦へと向けて機銃を撃ち込んできた。 整備員たちが見たら白目を剥いて倒れるのではないかと思われるぐらいに、機体の運動性能の上限を超えて由良は上下左右に素早く動き敵機の攻撃を躱していく。 しかし敵は複数機おり、由良のことを追い込むようにしつこく追いかけてくる。更に無理をさせすぎたのか零戦の機体からピシッとどこかが軋むような音が鳴った。 「クソ……あと少しなんだ……」 僅かに操縦桿を握る手を弱めて由良は打開のその時を待つ。 弾が飛んでくる方向とその数で敵機が残り四機はいることが分かった。先程の見立てよりも多いその数に由良は再び唇を噛み締める。 可能性は限りなく低いが、一つだけ逃げ切れるかもしれない手があった。 それは敵機同士をぶつけて撃墜させることだ。 異なる方向へ大きく素早く移動し敵を分散させたら、後は二方向から追ってくる機体を間一髪避けてぶつけさせるという作戦だ。味方機の掩護もなく半ば運頼みのような無茶な飛行だが、弾の残りも燃料の残りも心もとなくなってきた。ならば勝負は早いうちに仕掛けた方が良い。 壊れるなよ、と心の中で零戦へ語りかけながら由良は機体を捻るようにして手近な雲に突っ込んだ。微細な水分の集まりなのに雲は由良を嘲笑うようにその粒子を零戦へとぶつけてくる。ガタガタと激しく揺れる機体を抑え込むように由良は歯を食いしばり操縦桿を更に押し込んだ。 急な零戦の動きに不意を突かれた敵機が慌てて追ってくる。 熊蜂のように唸るエンジン音を聞き、由良は続いてぐるっと迂回するように大回りで機体を旋回させていく。 雲のおかげで由良の正確な位置は特定されないが、一方で由良にとってもその条件は変わりない。 零戦の背後と左手側から迫る機銃の弾道と眼前に広がる濃淡を描く雲の群れ。それらの情報からもはや直感で由良は大きく勝負に出た。 グンと敢えて高度を下げて敵の攻撃を誘い込む。案の定一機のグラマンがしっかりと零戦の尻に食らいつくように着いてきた。 「来いッ……!」 由良は自らの機体と一際濃い雲を陰にするようにして、同じく迫っていたもう一方のグラマンの前に突如躍り出ると今度は機首を思い切り持ち上げて急上昇した。 「ぐっ……!」 空からの凄まじい重さに由良の身体も零戦も悲鳴を上げる。 機体の運動性能上あり得ない動きをした零戦についていけず、敵は急いで回避しようとするが間に合うわけもない。 ドォン!と爆音が鳴り二機のグラマンが衝突した。 やった!と喜ぶ間もなく、にわかに黒煙の中から機銃の光線が目の前に迫る。衝突したグラマンの後ろにつけていた敵機が味方の被弾にも怯まずに攻撃を仕掛けてきたのだ。 それを由良は目一杯操縦桿を右に倒して回避しようとした。零戦は健気にも由良の乱暴な操縦に従い敏捷に解き放たれた弾を交わすが、撃たれた距離が近すぎたようだ。零戦の類まれな運動性能のおかげで全弾命中は避けたものの、腹と尾翼にパシンパシンと弾が当たる音が響いた。 「チッ」 敵機の追撃から逃れるため、由良は交わした体勢のまま真下に機体の鼻面を向けた。 機体の向きを急激に変えることは操縦性を失うことを意味する。最悪錐揉み飛行となり墜落する危険性が高いからだ。 日本軍だけでなく敵の連合軍でも戦闘機の搭乗員であれば誰もが知っているような常識だからこそ、そんな飛行をする由良のことを敵も味方も恐れるのだ。 ミシッ、と機体の後ろの方で嫌な音が響いた。 敵は後二機いる。逃げ切れずに撃たれて墜ちるぐらいなら、敵を巻き込んで墜ちるのが由良の主義である。 一度下げた機首を再び何とか上に向け敵の機銃を躱すように急旋回して上昇すると、由良はグラマンの横っ腹に飛び込むように速度を上げる。 「避けんなッ!」 機体ごと突っ込んでくると悟った敵機が間一髪のところで避けたが、零戦の尾翼がグラマンの右翼と打つかり派手な音を立てて折れた。 空に響いたその音と、由良の死をも恐れない撃墜への執着、そして『修羅』と呼ばれる所以である凍てつくような冷たい表情に獲物を狩る悦びを滲ませた口元と、燃え上がる闘争の炎を隠すことなく映した瞳。それら全てに慄いた敵機は逃げ帰るように雲の中にその姿をくらませた。 「二機もいて逃げんのかよ!腰抜け共がッ!」 戦いを途中で切り上げること程気持ちの悪いものはない。 奇跡的にグラマン二機をぶつけ合い撃墜させたことですっかり高揚し冷静さを欠いた由良が吠える。敵機を追いかけようとした瞬間、ついに由良の操縦に耐え切れなくなった零戦の尾翼がパッキリと折れて海へと落ちていった。 「ッ!」 それに振り回されるように機体が大きくグルンと回転する。何とか体勢を立て直そうと由良は両手で操縦桿を握るが、結合部に鉛でも詰められたかのように重たく動かない。 「クソッ、動け!」 こんなことで無様に墜ちるなど決して許さない。 しかし由良の怒りも虚しく零戦は力尽きたように途端に言うことを聞かなくなった。 「まだ飛べんだろッ!」 ラバウルから遥か遠く、鈍色の空にボロボロの零戦が煙を上げて次々と薄灰色の雲を作っている。傷ついたその零戦は、もう休みたいのだ、と言うように徐々に海へ向かって大空の道を駆け下りていく。
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