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13
その後、舟人が厚木少将と会話をしつつ任された書類の処理を進めていると、何やら廊下の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「……何やら外が騒がしいですね。ああ、頼まれていたものは全て集計して各科ごとに番号振りをしました。組紐がないので事務方に貰ってこようかと思うのですが」
書類を手に取り、トントンと軽く卓上で叩いて整えながら厚木少将へと声をかけた瞬間、執務室の扉がガラッと勢いよく開いた。
「し、失礼します!百目木一飛がこちらにいると聞き、まっ参りました!」
入ってきたのは整備科の新兵か。舟人よりもいくつか年若く機械油で汚れた顔は緊張に染まりきっている。新兵が司令部、ましてや少将の執務室に用立てで遣わされるとは一体何事だろうか。
「百目木は俺だが」
舟人は書類を持ったまま椅子から立ち上がり新兵のもとへ行く。
「お前なぁ、見たところ新兵のようだがここは宿舎じゃないんだ。少将直々の執務室なんだから入室時には所属と階級、名前を名乗るのが基本だろう」
まあ、その面なら緊張してて忘れたのだとて仕方あるまいが……。
と舟人は老婆心を出して言う。
「しししっ、失礼しましたァ!わ、私、整備科物部班の田桐二等整備兵です!お、お邪魔いたします!百目木一飛に言伝でっ、参りましたッ!」
比較的体格の良い舟人に正面に立たれて田桐と名乗った新兵はタジタジとした様子で数歩後ずさる。
「で?用はなんだ。俺はまだ書類の整理が残っているし、ここは厚木少将の執務室なんだから早く言え」
舟人の抱えた書類と、その背後で楽しそうにニコニコと微笑んでいる厚木少将を見て田桐は僅かに唇を震わせながら言葉を紡いだ。
「っ、は…花登一飛の、乗った零戦が南崎の外れに座礁し、花登一飛がふ、負傷しているとのことで急ぎ第二飛行場の滑走路まで来るようにと」
「何ッ!?」
田桐の言葉を聞き舟人は叫んだ。後ろで二人の様子を見守っていた厚木少将も普段は穏やかに細めているその目を一瞬大きく見開いた。
「これ、頼んだ!」
「あ、わ、わわっ!?」
舟人はそう言うと抱えていた書類を田桐に押し付け、素早く厚木少将に一礼をして執務室から飛び出していく。
「ま、待ってくだ…あ、わあああ」
慌てて舟人を追おうとした田桐だったが咄嗟に渡された書類の束が無慈悲にも腕から溢れて執務室の床に広がり悲痛な声を上げた。
先程まで丁寧に整理した書類がそんなことになっているなど露知らず、舟人は司令部の廊下を全速力で駆けていく。途中何度か「コラ!百目木!走るんじゃない!」と上官たちからお叱りの声が上がったが最後まで言う頃には舟人はとっくにその場を後にしていた。
「ッ、」
司令部の建物から飛び出すとカッと太陽の光が舟人を焼くように照らす。一瞬その眩しさでくらり、と足元がよろめいた。それがまるで怯えた心の内が投影されたように思えて舟人はグッと奥歯を噛み締めて足に力を入れて再び走り出す。
息を切らしながら第二飛行場へ向けて駆けていく舟人を「また修羅が何かやらかしたのか」と事情を知らない連中がその背に生温かい視線を送っていた。
「くっ……」
もっと速く走れよ!
と己の足を心の中で叱咤しながら舟人は一心不乱に走っていく。
「っ、ゆらっ……!」
転がり込むように第二飛行場に辿り着くと慌てた様子で整備員が駆け寄ってくる。
「百目木さん!助かりました、こっちです」
ハアハアと激しく呼吸をしながら整備員に案内された先には血に塗れてボロボロの姿の由良が整備用か木箱にもたれかかり地面に座っていた。
「なんで医療舎に連れていかないッ!?」
その姿が目に入るなり舟人が隣にいた整備員に怒号を飛ばすと「……るせ」とくぐもった由良の声がする。
「由良っ、お前っ!」
慌てて由良に駆け寄った舟人に今度は先程よりもハッキリと「うるせぇ……」と由良が言う。
「うるさい、ってお前……ふざけるなッ!なんでそんな怪我して…っ、大人しく医療舎に行けっ!」
目の奥がじわっと熱くなったのを必死に抑えながら舟人が言うと、由良はゴホッと咳をして血を地面に吐き出して舟人を睨みつける。
「疲れてんだよ、こっちは。少し休んで動けるようになったら、医療舎でも宿舎でも行ってやるっつってんだ」
「おま、何言って……」
こめかみや頬を切ったのか流血し、正絹のマフラーは無惨にも血に染まっている。厚手の飛行服に包まれた身体は他にどこを怪我しているのかパッと見ただけでは分からないが、左足の太ももの辺りも血が滲んでおり、よく見ると右の脇腹を隠すように左手で押さえている。
「テメエらもこの馬鹿に先にそれを言えよ、つうかよりによってコイツを呼びやがって……」
血に塗れた蒼白の表情でも尚燃え上がる怒りの炎を瞳に宿しながら「覚えてろよ」という由良の怨嗟の呟きで、その場にいた整備員たちは「ヒッ……」と怯えた声を上げた。
由良を叱り飛ばしたい気持ちを何とか抑えつけると、ズキズキと頭痛のし始めた頭を片手で押さえ舟人はここまで連れてきた整備員の方を向く。
「なんでこいつはこんなに頑なにここにいるんだ……」
「そ、それが、担架で運ばれるのは、情けないから嫌だと……」
案内するなり怒鳴られたことが記憶に新しい整備員はぎゅっと身を縮こまらせながら恐る恐るそう答える。
「ハア!?そ、なん……はぁー、ったく……」
舟人は驚愕して短く叫ぶと次いで脱力し切って天を仰いだ。
するとなにか。戦闘機で不時着し怪我までしているのに格好悪いから担架で運ばれたくないからとここでごねているというのか。
「……由良、お前……脚の怪我は」
「は?大したことねぇよ」
なんだ急に、と血の気の引いた顔ではあるものの毅然とした視線を胡乱げにして由良が答える。
「だから、折れてるのか切れてるのか。脚ちゃんとくっ付いてるのか」
「ハア?馬鹿がよ、擦り傷だ。取れてたらこんな血の量で済むわけねーだろ」
突如始まった舟人の問診と、触ればこちらが切れそうな由良の刺々しい受け答えの様子を整備員たちは固唾を飲んで見守っている。
「じゃあ腹は、それ、裂けてんのか」
「うるせぇな、裂けるまでいってねぇよ」
「そうだな、それに頭も大丈夫そうだ。これだけいつも通りに文句が言えているならな」
「あ?貴様喧嘩売りに来たのか?」
再びゴホッと血の塊を行儀悪く地面に吐き出すと空いた右手で由良は乱暴に口元を拭った。
「医療舎にコイツが負傷していると連絡は?」
「し、してあります」
「そうか、分かった。俺が連れていくと急ぎ伝えてくれ」
「ハア!?」
由良の怒りに満ちた叫びを無視して舟人は額から冷や汗を垂れ流す整備員に笑顔を向けた。
「担架は不要だ。俺がこの馬鹿を連れて行くから、そうしたら急ぎ治療を頼むと」
伝えてくれるな?
ニコニコと口角を上げた舟人の背から怒りに満ちた黒い覇気が漂っているのを心の目で見た整備員は「は、はいぃっ!」と半ば泣きながら敬礼をすると医療舎に向けて一目散に駆け出した。
「さて……」
他の整備員たちはいつの間にか巻き添えを喰らうことを恐れ、捕食者から身を守る小動物のように集まり固まっている。
執務室での仕事であったから防暑服ではなくきちんとシャツを着ていた舟人はおもむろにそれを脱ぐと、文字通り手負いの獣のごとく敵意を剥き出しにしている由良に近づいた。
「由良」
有無を言わせない口調と怒りを抑えるための舟人の笑顔に由良が「ぐっ……」と悔しそうに息を飲む。
「これ、腹に押し当てて」
「いらな…」
「いらなくない、これで腹押さえろ」
由良の言葉を遮ると舟人は脇腹を押さえていた由良の手をガシッと掴み隙間に自らのシャツを差し入れた。
白いそれはじわじわと血が滲んでいき、舟人の眉根がぐぐぐと寄る。
「すまん、その手拭いくれ。後で新しいものを返すから」
怯える整備員たちの群れの中の一人に目を付けると舟人は汚れていない手拭いを持っている小柄な整備員へ声をかけた。
「は、はいっ……!」
ブルブルと手を振るわせながら手拭いを差し出した整備員に「悪いな」と舟人は微笑み、その手拭いを由良の血の滲む左太腿に巻き付けた。
「……気は済んだかよ」
ジト…と睨め付ける由良に、
「いや、まだだ。お前は怪我人なんだから暴れるなよ…っと」
と舟人は言うと同時に由良の身体を抱き上げた。
「オイッ!貴様ッ!」
「だから暴れるなって、傷口これ以上開いたらどうすんだ」
「降ろせッ!クソッ、殺す、絶対殺すッ!」
なるべく傷口に負担を掛けたくないが、横抱きにしたらそれこそ後で由良に殺されるか屈辱のあまり舌を噛んで死ぬかもしれない。しかし米俵のように担いでも腹部に負担が大きく望ましくない。そう思った舟人は仕方なく横抱きのように抱えながらもその上体を起こさせ舟人の半身に寄りかからせるような格好で由良の身体を支える。
由良の左手は脇腹を押さえていたから舟人との身体に挟まれ動かせない。残る右手と問題なく動く右脚をバタつかせ必死の抵抗をしながら「殺す!」と吠える由良に舟人は静かに告げる。
「布で口塞がれるのと、俺の手で塞がれるのとどっちがいい」
「クッ!」
テメエ……とギリギリ歯を食いしばった由良の声は地獄の底から響いてくるような恨みに満ちた音をしている。
しかし怪我による体力の消耗もまた事実なのか、再びゴホゴホッと鈍い音で咳込むと舟人の肌着に赤の点が散った。それを見て諦めたように由良は僅かに身体の力を抜いた。重みを増した細身の身体に可能な限り負担をかけないようにして舟人は急ぎ足で医療舎に向かい静かに駆けていく。
幸いなことにすれ違ったのは複数人の地上要員たちだけで、彼らは一様に血塗れの由良が見ただけで相手が気絶するような恐ろしい眼差しを浮かべているのが視界に入るなりサッと顔を背けて由良の逆鱗に触れないようにした。
これまで散々人目を気にせず由良を追いかけ回していた舟人は、後に「あの修羅をも屈服させたラバウル一しつこい男」として不名誉な名が密やかに囁かれたという。
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