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目が覚めるといつもの宿舎の天井ではなかった。 疑問に思い眉根を寄せて起きあがろうとした瞬間、由良の脇腹にズキンと熱を持った痛みが襲い、遅れて左太腿も似たような痛みが走る。 ああ、そうだ。俺は不時着して何とか生き延びたんだった。 戦闘機が飛べないぐらいに壊れたなら敵機にぶつかり道連れで散華する覚悟で由良は空を飛んでいる。しかし、敵機も巻き込めずに壊れた機体でただ海に墜ちることは由良の矜持が許さなかった。だからもう限界だと墜ちたがる零戦を叱りつけるようにラバウル島まで必死に空を駆け、なんとか不時着させて今に至る。 着陸の際に壊れた機体で怪我をしたことは分かったが、自力で歩けるぐらいだったから少し休んで医療舎に向かおうとしたのに、この世界で一番厄介な男がやってきて厄介なことにそいつに運ばれてここまで来た、ということも思い出して由良は顔を顰めた。 誰にも頼らなくても生きていける。誰かと生きることは守るものも責任も増えるということだ。 軍にいれば一つの駒として扱われる。自ら戦闘機を操縦し戦う術を持った駒だ。これまで幾度となく星を上げてきた由良は、普通であれば叩かれてもおかしくない杭なのに、その頭が届かないぐらい突出したから見過ごされている。 実力で黙らせることが出来るこの世界が由良は好きだった。 荒れ狂う吹雪の中にいる由良にはこれまで誰も近寄ろうとはしなかった。来れば自分が死ぬかもしれないそんな過酷な環境に身を置こうなど誰も思わないからだ。氷の刃は由良の身を削るけれど、同時に不要なものを寄せ付けない絶対の砦でもあるのだ。 だからそこを突破してきた舟人のことを由良は憎んでいた。太陽の化身のように底抜けに明るく前向きな舟人によって、由良の纏う氷雪が徐々に溶かされていくようだったから。 太陽の前で丸裸になった由良は、きっと全身傷だらけでうずくまるか弱い獣でしかない。 「はー……」 ため息をついて思考から痛みと舟人と追い払おうとした瞬間、ガラッと引き戸が開き入ってきたのは今一番見たくない人物だった。 「由良!大丈夫か!?」 軍医に散々「うるさくするな」と言われていたことなど頭から吹き飛んだ舟人が闊達な声で言いながら由良の寝台に近付く。 「なんだって貴様が来るんだよ……」 よりによって、今この時に。 由良の心中などいざ知らず、舟人は口やかましく由良の怪我の様子を訊ねる。 「うるせーな。軍医に聞け」 「お前の口から大丈夫か知りたいんだよ」 大丈夫じゃなかったらこんなとこでのうのうと寝てねえよ。 という言葉を飲み込み由良は「うるさい」とだけ呟いた。 「うるさいうるさいってお前はそればかり……」 由良に母の記憶はない。 けれど口やかましくお節介を焼いてくるこの感じが母親なのだとしたら、つくづくその記憶がなくて良かったと思いながら三度目の「うるさい」を返す。 由良の頑なな様子と普段通りの応酬をとりあえず良しとしたのか舟人は深くため息をついて寝台に両腕を置くとその場でしゃがみ込んだ。 「……まだ瑞雲に乗ってないのに、勝手に一人で怪我するな……」 「貴様と瑞雲に乗ることなんて俺は認めてない」 けたたましい勢いで大丈夫か大丈夫かと騒ぎ立てたと思ったら、舟人は空気の抜けたように弱々しい声で両腕に顔を埋め由良に言う。 それを跳ねつけるように一蹴して由良は舟人とは反対側の窓の外へと顔を向ける。 「お前が認めてなくたって司令部の命令なんだ。逆らえるわけないだろ」 顔を埋めたままくぐもった声で舟人が返す言葉を由良は黙殺する。 そんなこと、俺だって分かってる。 どんなに無茶な操縦をして機体を壊そうが、星を上げているから例えそれが許されようが、それでも由良はただの一等飛行兵に過ぎない。 命令されたら絶対服従しかない。そんなことは軍人だから理解しきっていた。 由良の無言の返答を受け取り、舟人は「なぁ」と顔を上げ由良に呼びかける。 「もう無茶な飛行はするなよ。戦闘機はお前の命を乗せてるんだぞ」 舟人の声は声量が少なくても空気を割るようにハキハキとして聞き取りやすい。真面目な声音でそう言う舟人はなんとか由良を諭そうとしているようだ。 「戦闘機は人間を殺す道具だろ」 「それもそうだが……だからと言ってぞんざいに扱っていいわけないだろ」 戦闘機も、お前自身も。 舟人の言葉は由良には届かず、由良の凍りついた眼差しで一瞥された舟人の背すじに冷たい汗が伝った。 「じゃあなんだ。蝶よ花よと愛でろってのか。馬鹿じゃないのか貴様。一機でも多くの敵を撃ち落とすのが俺の仕事だ。敵を殺すために限界まで使いこんで、そんでもって最後の最後に地獄に共連れにするぐらいの気概のねえ奴が、空飛んでんじゃねえよ」 由良は珍しく一気にまくし立てると氷のようなどこまでも冷たい笑みを浮かべた。そこにあるのは拒絶だけだった。 「なんでお前、そんなに悲しいんだよ……」 そう、悲しいのだ。 感情を凍らせて、自らの命すらも道具としているような苛烈なその生き様が舟人にはどうしても悲しくて仕方ない。 「は?」 僅かに虚を突かれたように由良が言う。 「悲しい……?俺が?悲しいって、どういうことだよ」 敵兵からも恐れられるという鋭い視線は、さながら猛禽類の瞳のように舟人を真っ直ぐに捉えている。 舟人には、その瞳の奥に見出したい光があった。 何もかもがきっぱりと色をつけた南の島の夜明け前の刹那、仄白く明らむ空のような……貴重で得難い光を。 何も答えずに瞳を見つめ続けるだけの舟人へ最後にギン、と機銃の口径が太陽に煌くような無機質で暴力的な光をその瞳に宿して、由良はそっぽを向きもう舟人の方を見ようとしなかった。 ため息をつき病室を後にしようとした瞬間、耳に入ってきた小さな呟きで舟人は足を縫い付けられたようにしばらくその場から動けなくなる。 それは由良の心の内を僅かばかりに零したようなどこか悲しい響きをした「貴様なんか大嫌いだ」だった。
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