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「すまん、花登一飛を見なかったか」
思いがけない手が熱いという言葉にしばし呆けた後、いかん。と思い由良のあとを追いかけることにした舟人は、由良の去った方角へ足を進め道中にいた地上隊員へと声をかけた。
「花登一飛……?」
首をかしげる地上隊員の隣にいた整備員が口を挟んだ。
「ほら、『修羅』だよ」
「ああ」
修羅という言葉に納得したようにうなずいた地上隊員に今度は舟人が首をかしげた。
「修羅……?」
「花登一飛のことさ。あいつ、いっつもすごく不機嫌な顔でありとあらゆるものを睨みつけているだろ?賢治の『春と修羅』ならぬ、はなとゆら。だから修羅」
「はあ……」
わかったようなそうでないような、なんとも言えないままでいる舟人に整備員が続ける。
「なんでもあいつ、零戦に乗っていた時はとんでもない荒くれでさ。俺ら整備員泣かせの操縦ばかりするんだ。その癖目ばっかし鷹の目だから撃墜数は多くてな。陰湿に連合軍のグラマンを追いかけ回した挙句、撃墜する時に相手に向かってにやりと笑うんだと。その恐ろしい笑みと普段の仏頂面からついたあだ名が、修羅、ってわけよ」
由良の歩み去った方角を教えてもらい舟人は椰子の木で影のできた波打ち際を歩く。今日も碧く透き通る海は穏やかな波音を立て、景色だけ切り取ればまるで戦地に身をおいていることを忘れるぐらいの美しい光景だ。
ぼんやりと海を眺めながらざくざくと足元の砂を踏み舟人は先程聞いた話を反芻した。
笑ったりするのか、あの不機嫌な顔が。黙って涼やかにしていれば由良の周りだけ避暑地かのような清涼な風が吹いていそうな綺麗な顔だと言うのに。
修羅というよりどちらかと言うと
「花の顔、だろ」
思わず口から漏れた言葉の先に、由良がいた。
椰子の実にナイフを突き立てたまま、わずかに眉根を寄せる表情を見て改めて言葉にする。
「うん、不機嫌そうでも花の顔だ」
にこりと由良に向けて笑った舟人に、当の本人は目元の険を深くした。
「貴様、追いかけてきたのか」
「ああ。まだ話は終わっていなかったからな」
「俺にはない」
ばっさりと切り捨てると椰子の実を割るためにナイフを引き抜き突き立てる。
「そんなものがあるのか」
「たまたま流れついているのを拾っただけだ」
舟人には目もくれず椰子の実と格闘する由良だがなかなか割れないらしい。
「どれ、貸してみろ」
由良に近づいた舟人が有無を言わせず実とナイフを取り上げる。
「おい、」
少し焦ったような由良の声に、こいつは声に表情があるのか。と新たな発見をして妙に嬉しくなる。
ペアか。最初は厚木少将の「君たちの名前が短歌にあってね」というとんでもない理由で組まされたペアだと思っていたが、どうやら自分はこいつのことがそんなに嫌いではないようだ。もとより意味もなく人嫌いする性質でもないし、近所にいたつれない野良猫を手懐けるのと大して変わらないのかもしれない。
由良が何度叩いても割れなかった椰子の実は、舟人が一度ナイフを突き立てたあと、裂け目に指を入れ力を加えて押し広げるとあっけなく半分になった。
途端、ぱしゃりと中の水分がこぼれあっという間に熱せられた白い砂浜へ吸い取られる。
「しまった……」
半分になった椰子の実の器には片側にしか果汁が残っていない。
そら見たことか、と言わんばかりに見下した表情の由良へ果汁の入った方の器を差し出す。
「すまん、こぼれてしまった」
由良は素直に受け取るとそっと口をつけて中の液体をちろり、と舐める。
それなりに日焼けはしているものの他の隊員たちと比べると色の白い由良の口元に垣間見えた舌は一瞬ぞくりと肌が粟立つほど赤く扇情的な色をしていた。
「……ぬるいな」
飲めると判断したのか数回張りの低い喉仏が上下し、由良はおもむろに椰子の実の器を舟人に差し出してきた。
「やる」
「もういいのか?」
舟人が器を受け取るやいなやふい、と視線を外しあさっての方角を見る由良に問う。
「別にそこまで飲みたかったわけではない。小さく穴を開けてゆっくり飲もうかと思ったら貴様が盛大に真っ二つにしてくれた」
興が削がれた。だから残りはお前が飲め、と言う。
由良が口をつけていたところが紅の移ったかのように赤く染まってはいないかと目を凝らしたが、そんなことはもちろんあるわけもなく、舟人は黙って果汁を飲み干した。
「……冷えている方が美味いな」
戦時中とは言え、航空隊の集う最前線のラバウルには内地から物資が山のように届く。トラック島にいた時にも感じたが、内地よりも遥かに南東に離れたこの絶海の島々の方が豪奢な生活を送っているのだろう。無論、出撃の命が下れば文字とおり命を賭して国のために戦うのだが。
由良は舟人から逃げることを諦めたのか、椰子の木に寄りかかり海を眺めている。
舟人は由良へ近づき改めて声をかけた。
「俺は百目木舟人。どうめきは百の目玉の木と書く。出身は神奈川、横須賀の予科練卒だ。階級はお前と同じく一飛で、偵察員だ。今まではトラック島で三座の偵察機に乗っていた。鷹の目と称されるお前には敵わないが、目には自信がある。もちろん機銃の腕も」
急に自己紹介を始めた舟人を怪訝な顔で見る由良へ続ける。
「俺は機体も操縦員も大切にする。無茶な飛行はさせないが、誠心誠意ペアとして勤める所存だ」
ペア、という言葉にぴくんと反応した由良は舟人を睨みつけ言い放った。
「俺は一人で飛べる。貴様の指示などいらん」
またもや言い捨て去ろうとする由良の肩を掴み、椰子の木の幹へ縫い止める。
「おい、離せ」
噛みつかんばかりに敵意を剥き出しにした由良へ普段通りの口調で話しかける。
「俺はまだ、貴様の自己紹介を聞いていない。あと、瑞雲は一人じゃ飛べない。零戦とは別物だ。フロートで水着したことがあるのか」
「フロートなんかなくたって水着できる!」
零戦乗りは一筋縄ではいかない連中ばかりだと聞いていたが、由良もやはり操縦員としてのプライドが黙っていないらしい。
「零戦の水着は墜落だろ。お前はこれまで運が良かっただけだ」
「黙れ!零戦に乗っていないお前に何がわかる。俺はな、ただ墜落してるんじゃない。敵機を巻き込むために墜ちるんだ」
涼やかな湖のように澄んだ瞳の奥に、炎がちらつくのを舟人は見た。
「お前、なんでそんな無茶な戦い方するんだ」
苛烈な性格が機体だけでなく由良自身も燃え尽くそうとしているように思えて舟人は眉根を寄せて問う。
心配されていると思われたのか由良は舌打ちをして小さく言い放った。
「貴様には関係ない」
もう話すことはない、と押しのけられた腕は、今度は由良の手を掴めなかった。
関係ないと言い放った時に見えた、ほんの少しだけ何もかもを諦めたような眼差しが脳裏にこびりついて、舟人は碧い海が桃色に染まるまでそのまま椰子の木の影で立ち尽くしていた。
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