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5
「由良、これから飯か?一緒に行こう」
「……」
返事がないのは初日に話したっきり変わらない。
「お、搭乗割を見に行くのか。お前の次の搭乗は明日の午後だったぞ」
「……」
煩わしそうに送られる視線が日に日に冷たくなっているような気もするが、多分きっと大したことではないだろう。
「風呂行こうぜ。背中流してやろうか」
「……黙れ。俺に近づくな」
「ええ……そんなつれないこと言うなよ」
なあなあ由良ってばぁ。と甘えるような声音を出すも由良はちっとも靡いてくれない。
仕方ないな。と独り言ちて、今日も舟人は足早に去る由良の背を追いかけるのであった。
舟人と由良が瑞雲に搭乗するように指令が下ってからひと月が過ぎた。瑞雲がラバウルに到着するまで後少しだ。
任された事務作業や、当番の畑仕事、滑走路の整備や銃器の手入れなど地上にいる間もやることはたくさんある。その合間合間で由良と親しくなろうと、舟人が声をかけ後を追うようになってからもひと月が経っていた。
相変わらず由良が心を開く気配はないし、かといって舟人も諦めるつもりはない。
毎日のように繰り返される舟人と由良のやり取りに、当人たちより先に辟易とした周囲の声が聞こえ始めた。
「……おい見ろよ。また百目木が修羅のこと追いかけ回してるぞ」
「あいつも大概物好きだよなぁ……」
建物の廊下、食堂、整備場、宿舎、果ては便所にいる時までそんな小声が聞こえるようになっていた。
比較的自由な気質のラバウル基地とはいえ、競争社会でもある軍隊は男世帯ゆえに下世話な噂が飛び交い陰湿な私刑も存在する。舟人もこれまで幾度となく同期や上官の行き過ぎた苛めに耐えきれずに消えていく者を見てきた。
除隊を余儀なくされる程度ならまだ良い。最悪の場合、彼らのその目が再び開くところを見ることはできないのだから……。
幸いなことに舟人に関して言うと、今のところ通り過ぎ様にヒソヒソと囁かれる程度で事なきを得ている。人の陰口を叩いたこともないし、これから先もそのつもりはない舟人だが、そこまでコソコソするなら言わねば良いものを、などと思ってしまう。
「……なんだか、女学校にでも迷い込んだみたいだなぁ」
連日繰り返される通り過ぎざまに向けられる視線と、内緒話のようにヒソヒソと囁き合う様子を思い出して苦笑しながら呟くと、廊下の向こうで舟人を見て顔を寄せ合い何かを言っていた地上要員たちと目が合った。慌てて目を逸らした彼らの元にそのまま歩き寄るとあからさまな程、狼狽えている様子が見て取れる。
「なあ、今いいか」
「な……何だよ」
ニッコリと笑いかけながらそう尋ねると、話かけられた地上要員は顔を青くしてそう答える。
「なあ、どうして俺は陰口を叩かれているのに苛められないんだ?」
「……は?」
舟人の言ったことを理解していないような間の抜けた表情をした地上要員へと再び尋ねた。
「いや、だから、こう……軍でははみ出し者は叩かれる風潮にあるだろ?俺はすれ違い様によく物好きなどと言われるのだが、誰も一向に手を出してこないから何故なのかと思って……」
「はあ?!」
お前は馬鹿か!と言わんばかりに彼は大きな声でそう言った。呆れたように物の言えない彼に代わり、隣にいた別の地上要員がため息をつきながら舟人の疑問に答えてくれる。
「百目木、お前が馬鹿なのはよくわかったけど、誰がお前みたいな図体デカい奴に喧嘩吹っ掛けるよ。返り討ちが精々だろ。予科連でお前の柔道や剣道の相手になった奴はことごとく泣きを見てただろうが」
そう言われると確かに予科連にいた頃はそんなだったかもしれない。
「忘れたのか、お前が柔道の演習で百人連続一本取り続けたっての、今だに予科連で語り継がれているらしいぞ」
「えっ、なんだそれ」
確かに昔そんなことをしたことがある。途中から上官が面白がって「何人までいけるか記録を作るぞ」などと言い出して、最終的に道場に大勢人が詰めかけたのである。
「『百人抜きの百目木』に負けぬように励め!つって、予科連の若い奴らはみっちりしごかれるんだとよ」
「そ、そうなのか」
百人抜き程度だとあまりパッとしないなあ……と舟人が思っていると、
「……へえ、そんなあだ名を持ってんなら機銃なんて握ってる場合じゃねえな」
ゾッとする程冷たい声音が舟人の後ろから響いた。
冗談抜きでそこだけ気温が下がったように辺りが涼しくなった気がして、うなじに鳥肌が立つ。
「お……びっくりした。由良、急に驚かすなよ」
驚きつつも由良の方から話しかけてくれたという事実に嬉しくなり笑顔が溢れる。
舟人の向かいにいる二人の地上要員はというと、「ひっ!」と揃って情けない声を上げたっきり震えながら二人で身を寄せ合っている。
「チッ……下品な野郎だ」
氷点下すら生温いと思える程の凍てついた視線を舟人に送り、由良はそのまま歩き去った。
「えっ、ちょ、待てよ由良!」
「どどど百目木落ち着け」
追いかけようとした舟人の腰をガタガタと震えながら地上要員たちが押さえつけた。
「何するんだよ」
「お前っ馬鹿か!いや馬鹿なのはさっき分かったけど、あんな風に言われて追いかけるのはさすがに命知らずだぞ!」
「そうだ!馬鹿でも命は大切にしろ!」
先程からやけに馬鹿馬鹿と失礼極まりない物言いをされている舟人は僅かばかりムッとして言い返した。
「馬鹿って言う奴の方が馬鹿だって知らないのか」
「……お、お前、それは国民学校に通うガキが言う台詞だろう……」
由良への恐怖がどこか飛んで行ったように呆れ果てた様子で地上要員たちが呟く。
「とにかく、あいつは俺のペアなんだから追いかけることの何が悪い」
呆れ果てた表情を浮かべている二人を前に、更に馬鹿にされたような気がしつつ舟人が尋ねると、
「だって修羅の奴……凄まじい形相だったじゃねえか……」
由良の様子を思い出したのかぶるり、と身体を震わせて一人が答えた。
「……これまであいつにちょっかい出した奴を返り討ちにする時より、不機嫌でおっかねえ顔してたぞ」
「そうだそうだ、百目木お前追っかけすぎなんじゃないのか。ただでさえ嫌われてるのにこれ以上やったら本気で殺されるぞ」
「押してダメなら引いてみろって言うだろ。少しほっといた方がいいんじゃないか?」
引いてったらそのままどんどん由良が遠ざかっていくから押しに押しているのだろうが。
とも言えず舟人は黙って腕を組んだ。
うー、ともぐー、とも言えない音を喉の奥から零しながら悩み始めた舟人を見て地上要員たちは顔を見合わせる。
基地内のほとんど全員が由良を遠巻きにしているというのに、「押してダメなら引いてみろ」という発想もどうやらしっくりこない舟人に自分たちが助言できることはもうないだろう。そう目線を交わし地上要員たちは小声で言った。
「じゃ、じゃあな。俺たちはそろそろ行くから……」
「まあ、気負いすぎずに頑張れよ……」
引き止められることを恐れた二人は忍び足と言わんばかりにそーっとその場を後にした。
それすらも頭半分でしか聞いていなかった舟人は、なおも唸るような声音で「おー」と小さく返した。
「……俺が今、ここで引いたら由良の手は決して掴めないもんなあ……」
はあ、と盛大なため息を溢して、舟人は近くの窓から蒼く輝く空を見上げた。
蒼空には一羽の真白い鳥がどこか悲しげな鳴き声を響かせて、果てしなく続く空の彼方へ飛び去っていった。
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