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午前中から容赦なく大地へ降り注ぐ陽光によって、椰子の葉影はそこだけとっぷりと闇が広がったように黒々として底知れない。 それがまるで己の中から隠すことなく現れ出ている憎悪の感情のようで、由良は鋭い眼差しで睨みつけた。 ……もう我慢ならん。 舟人から「お前の考えてること間違ってるぞ」と、こちらの方が恥ずかしい奴のような言い回しをされ、激怒しつつも若干の羞恥に襲われながらその場を歩き去った翌日、由良は思考を焼き尽くす程に燃え上がった舟人への怒りを抑えることなく、いくつもの零戦が整然と並ぶ滑走路に来ていた。 今日はミッドウェー方面に進出しているという連合軍補給艦隊の駆逐作戦が行われる。由良の名も搭乗割に書かれており、後もう少しもしたら空の上にいるだろう。 司令部からも「問題児」と称されるよう、由良は上官からいくら叱責を受け、罰を与えられても大人しく艦爆機の護衛飛行をするような搭乗員ではなかった。機体も平気で損傷させるが、その代わりラバウルでも随一の撃墜数を誇っているため、司令部も早々に由良を飼い慣らすことは諦め、邀撃飛行の部隊に組み込むことで好き勝手に敵機を撃墜させることにしたのだ。 今回の作戦でも由良は邀撃部隊のうちの一つに配されて、連合軍の戦闘機と空戦を行うこととなる。 準備のできた搭乗員たちが続々と滑走路へと集まり、各々機体の元へ向かっていく。 滑走路脇の灌木や、少し離れた場所に生えている椰子の木の影を踏み散らし、慌ただしく整備員たちが駆け回る中、とある一角では整備員たちの間に怯えと緊張の気配が漂っていた。 氷柱のような冷たく鋭い怒気を立ち昇らせた由良がいるからだ。当の本人はというと、そんなことなど露知らず、黙々とカポックを身につけ飛行帽を被っている。そのまま由良が一番手近な零戦へ向かおうとした瞬間、「由良!」とよく通る声が辺りに響いた。 チッ、と小さく舌打ちをしてそのまま聞こえない振りをして機体の元へと歩いていく由良の肩に、いつの間に駆け寄ったのか由良を苛つかせている張本人である舟人の手が軽く置かれた。 「触んな!」 途端、由良は火がついたように舟人の手を乱暴に跳ね除けた。そして、そのままオロオロとしながら二人の様子を見守っている整備員たちを素通りして零戦に近づくが、 「由良は今日邀撃か?」 と舟人はたった今起きたことも、昨日のこともなかったかのように、いつもと変わらぬ様子で話しかけてくる。 それを不機嫌さを隠しもせずに「話しかけんな」と一蹴すると、小さく肩をすくめた舟人は「気をつけろよ〜」とヒラヒラ片手を振り、近くの整備員の元へ歩いていった。 なんだあの間の抜けた声は……! ただでさえ昨日の出来事により朝から苛々としていたというのに、搭乗直前に原因で元凶である舟人に話しかけられ、挙句気軽に触られて由良の怒りは爆発寸前になっていた。 ふーっと細く息を吐き出して何とか自分を抑えようとしていると、今後は不意に後方から 「へ〜!仲が良いこった!」 と揶揄いの色を全く隠すことのない野次が飛んでくる。 気の弱い者ならそれだけで失神するだろうと言わんばかりの鋭く険しい眼光で由良が振り返ると、一人の見知らぬ搭乗員が下卑た笑いで由良に近づいてきた。 「機体を壊しすぎたから星を誇る修羅様もついに複座落ちだな」 ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべた搭乗員に、朝から既に怒りの限界値が振り切れていた由良は、咄嗟に相手の胸ぐらを掴みあげようと前に一歩踏み出した。が、盛大に舌打ちをして踵を返す。 搭乗前に余計な体力は使いたくない。 だが、相手の搭乗員は由良のそんな態度が気に入らなかったのか、行手を阻むように由良の目の前に身体を割り込ませてきた。 「なんか言ってみろよ、事実だから何も言い返せないってか」 由良の燃え上がるような氷の双眸にも怯むことなく、搭乗員は挑発するように続けた。 「男の良さに目覚めたんじゃ、敵兵も殺せないだろうな」 舟人のことを言われているのだと瞬時に気付き、今度こそ由良は躊躇うことなく目の前の相手の胸ぐらを乱暴に掴みあげた。 「邪魔だ、退けよ。……貴様から殺してやろうか」 この男も舟人も、ふざけたことを言う奴はここには必要ない。いっそ空に出て本当に撃ち落としてやろうかと考えるとじわじわと口角が上がっていく。 由良が修羅と呼ばれる所以の一つでもある好戦的で不屈めいた冷笑を浴びて、胸ぐらを掴まれた搭乗員が僅かに呻いた。 「お前みたいな甘ったれた奴、零戦に乗せるだけ無駄撃ちされて終いだな」 口元に歪んだ笑みを浮かべながら淡々と言う由良に搭乗員が「んだとっ!」と唸りながら 由良の腕を掴みあげようとした。 「おいっ!やめろって!」 その様子に気づいた周りの搭乗員と整備員たちが慌てて駆け寄ってくる。 由良は相手に腕を掴まれる前に、グイと大きく引き寄せてから乱暴に突き放した。体勢を崩して搭乗員がドスンと派手に尻もちをつく。 「てめえッ!」 「待て!落ち着けって!」 吠えながら身体を起こして立ち上がろうとする搭乗員を同じ隊の仲間なのか何人かの搭乗員たちが押さえつける。 「お前、これから搭乗だろ!」 「相手は修羅だぞ!分が悪すぎるって!」 「うるせえ!馬鹿にされて黙ってられっか!」 あまり騒ぐと上官の目に留まり、作戦参加どころではなくなる。罰を恐れて周りの搭乗員や整備員たちも由良に喧嘩をふっかけた搭乗員を宥めながら引きずるようにして、由良の元から離していった。 その様を横目で見やって由良はすぐ脇の零戦に乗り込んだ。由良とは決して視線を合わせることなく、怯えた整備員が足掛けから素早く降り、慌てて離陸の準備を終わらせて道を開ける。 「由良っ!」 風防を閉める直前、舟人の呼び声が聞こえたが由良は構うものかとそのまま零戦を走らせる。舟人から遠ざかるように一刻も早く空へ飛び立ちたくて、助走距離が普段よりも短くなった。 無理に加速させられた車輪が花吹山から降り注がれた灰を煙のように巻き上げて、内地から赴任する赤とんぼ卒の若鷲泣かせなでこぼこした滑走路を、激しく振動しながら疾駆していく。はらりと一片の灰の欠片を零しながら車輪が地面から離れると、機体が浮かび上がるその瞬間に普段よりも大きな重力加速度が由良の全身を襲った。 「ぐっ……」 ガクンと下がりそうになる機体を持ち上げるように目一杯操縦桿を引き上げ、そのまま機首を上向けたまま由良は乱暴に零戦を空へと昇らせていく。 由良の荒々しい離陸にも機体は健気に従い、そして由良を一人きりの孤独で広大な空へと運んでいった。 数分後、辺りの視界がすっかり青一色に染まって、由良はようやく深く息を吐き出した。 肺の中を空にするように重々しく息を吐く。 地上で吸い込んだあらゆる雑念が、吐く息となって由良の唇から溢れ、機体の隙間を通り誰のものでもない果てのない空へと消えていくのを頭の片隅で思い描く。 いらない感情を全て吐き出して由良はほっそりとした切れ長の目を鋭く光らせた。 その瞳にはもう燃えるような怒りの炎は灯っていない。 どこまでも無慈悲に撃墜だけを希求する一羽の孤独な荒鷲の目だ。 そうして由良は心の中で小さく零した。 ここが居場所だ。 ここだけが、俺が俺でいられる……唯一の世界だ。
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