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「チッ……」 轟々としたエンジン音の中、耳鳴のように頭の中で舟人の声がうねり響く。 『お、今から飯か?俺も行こうかな』 「…い……」 『なあ〜そんなつれないこと言うなよ〜』 「……うるさい……」 『由良っ!』 「うるせえッ!!」 一番最後に聞いた責めるようでいて、けれどどこか心配したような舟人の声がすぐ側で響いたような気がして、由良は吠えながら乱暴に操縦桿を押し込んだ。もうすぐ敵の補給艦隊がいると報告のあった海域に到達する。こんなことで気を散らしている場合じゃない、けれど幻聴のように鳴り響くのだ、舟人の声が。 イライラした気持ちを鎮めようと数度浅く呼吸をしてから、由良はようやくゆっくりと息を吐き出した。 一人で飛ばしすぎたのだろう、周囲に味方の零戦機はない。少し高度を上げ遮蔽物の存在しない蒼空で太陽を背負い、由良は機体の速度を落として周囲へ五感を研ぎ澄ました。 ブブブブ、と熊蜂の羽が響くような音が次第に背後から迫ってくる。ようやく味方の零戦機がやってきたのだろう。偵察隊の機体が二機、眼下を通り過ぎて行ったの皮切りに数機の零戦が後を続いていく。陽光に照らされた銀翼に惹かれるように、由良も高度を下げてその後を追った。 青一色の広大な空に、日の丸を浮かべた深緑のジュラルミンが隊列を組み飛んでいく。 その威厳あふれる姿は特段戦闘機に興味のない由良からしても堂々として胸の張るような光景だ。 雲を突き抜けた先は何一つ陽光を遮るものがない。その容赦ない陽射しはまるで地上に生まれた生き物が空に来ることを拒んでいるようだ。 炙るような熱さで額に汗が浮かび上がる。風防を開けたい気持ちに駆られるのを必死に抑えつけて由良は目的地を一心に目指した。元より暑いのが苦手な由良だ。焼くような激しい陽射しはひんやりとした由良の身体を容赦なく焼いていく。 ジリジリと音も無く焼き焦がしていく陽光とは裏腹に、上空は真冬のような気温だ。そのために搭乗員たちは毛皮の付いた飛行服や飛行帽を着用している。 風防を開ければ凛烈とした空気が由良の身体を冷やしてくれるが、そろそろ戦闘が始まるだろう。防弾性能なんてたかが知れているが、直接機銃を食らうことを考えたら風防はあるに越したことはないし、元より命は投げうつ覚悟で日々搭乗しているが、暑かったから風防を開けましたそうしたら撃たれました、など馬鹿馬鹿しいにも程がある。 そうこう考えているうちに眼前の碧海にぽつんと滲みを落としたような小さな黒い点が現れた。 目標の敵艦隊だ。 徐々に大きくなっていく黒い点はいくつかの艦船で構成されており、近づくにつれて一つの点から砂糖に群がる蟻のように姿が変わっていく。 その蟻がパッと光ったと思うと同時に対空砲から放たれた弾が白い煙を上げて宙を飛び交った。 まだ対空砲の射程圏内には入っていないが、予想よりも早くに敵に気付かれたようだ。牽制射撃としてポンッポンッとした小さな音が騒々しいエンジン音の中僅かに聞こえたと同時に味方の零戦機が三機、高度を下げ始めた。 作戦開始だ。 通常零戦をはじめとする艦戦は三機一組の陣形飛行をして、第一機目の機体から攻撃を行う。一機目が弾切れになるか被弾したら控えていた二機目が今度は主戦闘を担うというわけだ。もちろん命を賭けた空中格闘戦が始まると敵は待ってはくれないし、御作法に則っていたら、撃ち落としてくださいと言っているようなものだから、なし崩し的に戦闘は混迷を極めていく。 由良たち援護部隊は敵に追われる味方機を助けるため、縦横無尽に空を駆け巡らなければならない。味方の零戦機と敵機が目まぐるしく入り乱れるそこにいることは一瞬の気の緩みも許されない。 機銃が届くより遥か先にいるのが味方なのか敵なのか、翼と翼がぶつかり合う程近くですれ違うのは零戦か、連合軍の機体か。 神鷲の島で鍛え上げられた若鷲たちの鋭い眼光は、僅かな小星も見逃すことなく追い続ける。 タタタタッ! 小気味良い音を立て、由良の乗る零戦から放たれた機銃が味方の零戦機の後ろに尾けていた敵機へ放物線を描くように飛んでいく。予想外の位置からの攻撃に敵の機体は動揺したように揺らいだ。 その隙を逃さないよう味方機と敵機の間へと、由良は自らの身体を捩じ込ませるようにしなやかに、そして素早く零戦を割り込ませた。 零戦は運動性能に優れた機体だ。それは日本だけでなく敵も認めていることは通信傍受により得られた紛れもない事実だ。 だがいくら零戦とはいえ、機体が空中分解しかねない程の荒々しい飛行をする操縦員など恐らく由良を除けばラバウル航空隊には他にいないだろう。 だからそれを知らない敵が更に動揺するのも無理はない。不幸なことに敵の操縦員は自らの機体ごと体当たりでぶつかってくるような由良の操縦を初めて目の当たりにし、その気迫に押されたようだ。 「フン……」 由良は小さく鼻を鳴らした。一瞬視界に入った敵の操縦員は、何かとても恐ろしいものを見たような蒼白の顔面をしていた。 由良が機銃掃射をするまでもなく、大きくバランスを崩した敵機は踊るようにくるくると機体を回転させながら後方へと遠ざかって行き、そのままきりもみ状に螺旋を描き眼下の海へと消えていった。 前を飛ぶ味方の零戦がもう追われていないことを確認し、由良は機首を持ち上げ高度を上げた。 どこまでも続く広大な空には敵味方の戦闘機が飛び交い、先程まで青一色だった世界は、今やいくつもの色で塗りつぶされている。 白煙を引きながら高速で飛び交う日の丸を背負った深緑と、小星を散りばめた鼠灰の鉄の魚たち。機銃から放たれた弾丸のパッとした光は真昼の空に浮かんでは消える星々の煌めきだ。 一際眩く光ったと思うと真っ赤な炎が碧空の海で燃え上がる。太陽がそこに宿ったかのような赤と橙と黄の大輪の花は、数多もの若鷲たちの命を刈り奪ってきた残酷な毒花だ。 海に向かって伸びる黒煙が、どこまでも突きぬける青空に夕暮れ時のような長い長い影を描いていく……。 由良はほっそりとした切長の目を鋭く光らせて更なる獲物を探した。 零戦と一体となり、戦闘機の隙間を掻い潜るようにして敵機を撃墜するその時こそ、由良が生きていると感じられる瞬間だった。 凍りついたように冷え切った自らの血が沸き上がる程の興奮と、裏腹にどんどん明瞭に冴えていく思考。 誰が言い始めたのか、神鷲の島の荒鷲。 南洋諸島を守る花のラバウル航空隊隊員たちの誉れ高きその異名は、まさしく今この瞬間の由良を指すのに最も相応わしい言葉だった。 傷だらけになっても、翼が折れても、飛び続け獲物を狩る孤高の鷲のように、由良もまた作戦完了の合図があるまで眼光を鋭く尖らせて、色とりどりに彩られた青空で銀翼を煌かせて舞い続けるのであった。
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