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9
月のない夜の出来事から数日後、一斉に搭乗命が下ったと同じ整備班の仲間に聞いた七於は、普段と違う偵察機の整備場へ足を運んだ。
見知った顔の整備員がいたので声をかけ、一斉の乗る機体を教えてもらう。
二式陸上偵察機。複座機だ。今まで一斉は単座機の零戦に乗っていた。それがなぜ、突然複座機へ変わったのだろう。
その夜、七於は搭乗員宿舎の前で一斉を待った。
あの夜から一斉とは顔を合わせていない。避けていたわけではないが、七於から会いに行かなければ搭乗前後以外では交わることはほとんどない搭乗員と整備員だ。今までが珍しかったのだ。
お互い馬が合うという言葉では収まらない感情を抱いているはずで、それがうやむやなまま一斉が複座機に乗るのも、それを手が届かない場所から眺めるしかないのも七於には我慢出来そうになかった。
「おっ、野竹整備長じゃないか!どうした、こんなところで。」
しゃがみ込んだ頭の上から聞き覚えのある明るい声が聞こえ、七於はハッと顔を上げた。
新規投入された水上偵察機「瑞雲」に乗る偵察員の百目木舟人が人懐こい笑顔で七於に会釈する。
「百目木一飛曹!し、失礼しました、このような姿勢で!」
慌てて立ち上がった七於は舟人へ敬礼をした。
「いや、気にするなって。ところで誰か待っているのか?」
「は、その……犬鳴一飛を探しておりまして」
敬礼した手を下ろし七於は舟人へ言った。舟人は小さく首を傾げ、
「犬鳴なら先程宿舎内で見かけたぞ、呼んでくるな。……おーい!犬鳴!客人だぞー!」
と宿舎の入り口から大声で叫んだ。
「っ!ど、百目木一飛曹!」
何もそんな大声で呼ばなくても、と七於が焦っていると、後ろから冷ややかな声で「うるさい」と返事があった。
振り返ると舟人とペアを組み瑞雲に乗っている搭乗員の花登由良が温度のない目を舟人に向けている。
「し、失礼しました!」
慌てて七於が謝ると、「野竹整備長に言ったのではない」と氷のような目線がチラリと向けられた。
「由良、うるさいとは何事か。人を呼ぶならこうするのが手っ取り早いだろ。あともう少し柔らかい言い方をだな……」
「うるさい。くどい」
舟人が話すのを途中で切り捨て、由良は宿舎の中に入って行ってしまった。
「はあ……あいつ、顔は可愛らしいのになあ」
ため息と共に舟人がこぼした言葉に七於は内心で首を横にぶんぶんと振る。いや、それはない、何でも「修羅」とあだ名される由良だが、あの氷のような冷え切った顔のどこを見て「可愛い」と思うのだろうか。
……しかし、まあ、ひょっとしたら舟人にしか見せない素顔があるのかもしれない。ペアだしな、そういうものなのかもしれん。と七於は無理やり自分を納得させるのであった。
「お、来たか!」
という舟人の声に七於は宿舎の入り口に目をやった。
「なな……野竹整備長……」
舟人の手前か名前を呼び直した一斉に七於は小さく会釈する。
「犬鳴一飛、野竹整備長がお呼びだ。それじゃ俺はこれで」
一斉の肩をぽん、と叩いた舟人は七於と一斉にそれぞれに笑顔で視線を送り、司令部へと向かう道に歩いて行った。
「……すまんな、夜に」
どう切り出したものかと七於が考えあぐね、無難な挨拶をすると、一斉はチラ、とこちらを見て、
「話、あるんだろ。ここでは人の邪魔になるから……」
付いて来いと目で七於に言い、整備場の方へ歩き出した。
「この辺りなら大丈夫だろ」
着いたのは零戦の整備場だった。
就寝時間の間際、少ない自由時間にここに来る奴はいない。機体も寝入っているかのように静まり返った整備場に自分と一斉の足音がやけに大きく聞こえた気がした。
一斉は近くで眠る機体を優しく撫でながら「で?」と七於を見ずに声をかける。
「っ、一斉。お前、複座に乗るって本当か」
直球で聞きたいことをぶつける。一斉は予想してたと言わんばかりの顔で、
「そうだ」
と短く返した。
「お前っ……相手は」
理由も分からず、いや、わかってはいるのだ。これは醜い嫉妬だと。そんな七於を見透かしたように一斉は話を遮った。
「元二式艦偵の偵察員だ。それがなぜ気になる」
そう言われてしまうと七於には返す言葉がない。
一斉は押し黙った七於を見て小さくため息を付き、そっと零戦の機体に寄りかかる。
「……ペアが、戦死したんだと」
ぽつりと一斉が言った一言は、小さな声だったのに夜の闇の中に響いた。
七於は何も言えなかった。戦争だ。最前線で戦う兵が死ぬのはおかしいことではない。
けれど、よく知った一斉の口で紡がれた死という言葉は、自分たちにも当たり前のように降りかかるものだということを、痛いぐらいの現実で七於に突き刺してくる。
「俺が、再び航空機に乗るのは、決定事項じゃない。試験的に操縦してみて、ダメなら……内地に、戻れと言われた」
「な、何でそんな……」
お前の目は、もう、戦闘機乗りの目じゃないのに。内地に帰るという言葉に安堵する気持ちと、ここで離れたらもう会えないのではないかという恐怖が頭の中を駆け巡る。
「音がさ、聞こえるようになったんだ」
「え、」
「前、浜辺でさ……」
あの日のことを思い出したのか一斉は少し俯いた。陰のかかった顔からは感情は読み取れない。
「あれ以来、やっぱ聞こえすぎることに気づいて、軍医とかに相談した。原因はわからないし、一時的なものかもしれない。でも、俺、これだけ聞こえるなら、きっと飛べるって思ったんだ」
「いくら音が聞こえたって、敵機が見えなきゃ話にならないだろ」
「聞こえる。まだ試してないけど、確信がある。俺は絶対、機体の中から敵機の音を聞き分ける」
「……そんなにか。そんなに聞こえるのか」
信じられないと言わんばかりの七於の顔を見てまっすぐな瞳で一斉が言った。
「……ここから、司令部の宿舎で賭け事をしているのが、波の音が、整備班の宿舎で六人組が新しい機の話をしているのが」
聞こえる。と嘘のようなことを言った。
けれど嘘なんかじゃないことは一斉の目を見れば明らかだった。
「一斉……」
七於はもう名前を呼ぶことしかできなかった。いつか約束した言葉が涙となって溢れる。
『どこにいても、お前が地上に帰ってこれるように空を見上げて、一斉、とお前の名を呼び待っている』
そうだ、約束したじゃないか。俺はずっといつまでも一斉の名を呼び待つと。
ならば信じよう。必ず一斉が帰ってこれるように、俺はお前を信じて待ち続けよう。
静かに涙を流し続ける七於を見て一斉は慌てたように七於の名を呼んだ。
「……信じてる。お前を」
涙を拭いもせずに七於は真っ直ぐに一斉を見つめて言った。溢れる涙でぼやけた視界の海に一斉の姿が漂うように揺れた。
そうして胸の中に一斉が飛び込んでくる。
「……好きだ……七於、お前のことが。多分出会った時から惹かれてた。好きだ。すきだ、すきだ」
ぐっと七於を抱きしめて額を、頬を、七於の胸に押し付けながらくぐもった声で一斉は言う。自分よりも幾分細い身体を腕の中に閉じ込め七於も想いを告げる。
「好きだ、一斉。お前のことは離さないから、だから、どんなに遠い空にいても必ず帰ってこい」
身を屈め、どんなに遠くても聞こえるという耳に感情をぶつける。
小さく熱い息を吐き出した一斉を更に強く抱きしめ小さな耳に熱と誓いを注ぎこむ。
「俺のこの声を忘れるな。いつまでも名前を呼ぶから。一斉、一斉、いっせい……」
「っあ」
今度こそ声に色を乗せた一斉が小さく身動ぐ。救いを求めるように七於を見上げた一斉に、以前もこんなことがあったな、と小さく笑みをこぼして、月のない夜に見せたのと同じ水を湛えた彼の瞳を見ながら薄く開いた唇を塞いだ。
頬を伝う自分の涙と、眦から溢れた一斉の涙で初めての口付けは海の味になった。
碧い海と空を携えたラバウルの地に、いつ散華するともしれない苛酷で、だからこそ尊いこの島に相応しい儚い味だった。
何度も何度も、互いにずっと望んでいた熱を、感情を、唇から伝え合う。欲しかったのはこれだ。他には何もいらない、互いの心を、身体を、欲し合うことの信じられないほどの美しい奇跡が、ただのひと夜をかけがえのないものへと変えた。
どちらからともなくそっと唇を、身体を離す。ふ、と吹っ切れたように小さく笑った一斉の頬にもう一度だけ口付けをする。
「俺ら、本当はもっと早くからこれを望んでたのかもな」
ごしごしと目元を拭いながら一斉が言う。
「ああ」
と短く返事をして、七於もまた肩口で濡れた頬を拭った。
「……さっきの話だが」
七於の腕に触れた一斉が、大きく深呼吸してから言う。
「お前の声も、顔も、身体も、心も。俺は全部忘れない、絶対に忘れない。だからこの腕の中は、常に空けておけ!」
そうして、笑った一斉はどこまでも無邪気で、真っ直ぐで、純粋だった。
だから七於も心から笑った。
「任せとけ!」
静かな夜の整備場で、とびきりの笑顔が二つ、太陽のように輝いた。暑くて、綺麗な夜だった。
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