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10
一斉の試験飛行は何ごともなく終えた、らしい。ちょうど零戦機の離着陸と時間が被り見に行けなかったのだ。というのもあるが零戦整備班の班長がのこのこと別の機体のところへ発着陸を見させてくれ、などとはあまり言えないものだ。
戻ってきた零戦の整備の様子を見て回ってると「七於っ!」と駆け寄ってくる一斉の姿があった。
「一斉!良かった、無事に帰ってこれて」
七於がほっとしたように破顔して言うと、
「馬鹿野郎!当たり前じゃないか!」と強気に答え、七於にしか聞こえない小さな声で、約束したからな。といたずらっぽくにやりと笑った。
整備が一息ついてから迎えに行く、と一斉を宿舎に戻らせた七於は班員たちの「後は俺たちがやりますから整備長は犬鳴一飛のところへ行ってください」という有難い申し出を断腸の思いで断った。彼らには七於が一斉に対して並々ならない思いを抱いてると、ひょっとしたら見え見えなのかもしれないが、それはそれ、これはこれだ。
有事の際ではないのだから、自分に与えられた任務を優先するのが軍人として、いや大人として当たり前のことだろう。
とは言え、彼らが一斉のことを搭乗員として評価し、好意を持っているのもまた事実だ。妙に微笑ましい顔をした班員たちに見守られながら、機体の整備を終えた七於はその足で一度自分の宿舎へ戻った。鞄の中からあるものを取り出し、一斉のもとへ向かう。
「失礼、呉松整備班の野竹整備長だが、犬鳴一飛はいるか?」
入り口で煙草をふかしていたどことなく軟派な雰囲気の搭乗員に声をかけると、彼は快く一斉を呼びに行ってくれた。
「お!早かったな!」
搭乗服から半袖の事業服に着替え小ざっぱりした様子の一斉が嬉しそうな顔を宿舎から覗かせた。
「ここは暑いから東側の浜辺に行こう」
一斉の後に続き午後の焼き付けるような日差しを避けながら歩く。日陰が多いこの浜辺は午後からのちょっとした避暑地だ。誰かが置いたのだろうか、椰子の木の下に流れ着いたらしい流木があり二人並んで腰かける。
「二式陸偵初飛行おめでとう。これ、大したものじゃないが祝いの品だ」
ポケットの中から内地にいる同期から送られてきた干し杏を手渡す。
「お、悪いな。……干し杏って、配給品にないだろ?こんな珍しいものどうしたんだ?」
目を丸くして驚く一斉に同期からもらったと伝える。
「何か特別な時に食べようかと思ってたんだが、今日がまさにそれだろ」
袋を手渡しながら言うと一斉は「いや、」
と言葉を濁した。
「今日はまだだ。飛行は上手くいったが、やはり俺は乗りなれた零戦がいい。……司令部にもそう伝えてきた」
「でも、お前それじゃ一人で……」
「なんだよ、俺が複座機に乗るって知ったら分かりやすく拗ねたくせに、また零戦に乗れるかもしれないんだから喜べよ」
笑いながらそう言われると何も言い返せなかった。いや、正確には拗ねたのではなく嫉妬なんだが……と言い訳しようとしたが結局は同じことだ。更に墓穴を掘りそうだったから七於は黙っていた。
「実際な、後ろに偵察員乗せて飛んだが、ほとんど俺に聞こえる音だけで飛べた。偵察機だったから戦闘演習はしなかったが、周りを飛んでいる機体全て偵察員の測った距離と差分なかった。俺の知ってる機体なら種類までわかったし」
俄かには信じられない奇跡のような所業だ。普通では考えられない。けれど一斉の言うことが間違っていないことは七於も知っている。
「……お前、神社の家の息子だし、なんか神様が憑いているんじゃないのか」
「それ、司令部にも言われたぞ」
耳が良い神様なんて聞いたことねえ、とカラリと一斉は笑った。
「で、お前、また零戦に乗るのか」
真剣な顔をして七於が聞くと一斉もまた表情を引き締める。
「まだわからん。零戦に乗りたいとは希望を出した。……試験飛行に付き合ってくれた偵察員も、操縦には何も問題ないと口添えしてくれた。ダメなら二式陸偵で我慢するしかないが、俺と乗りたがる奴がいないだろうな……」
搭乗員の希望は海軍の中でも通りやすいとは言え、状況が状況だ。でも、
「お前と乗りたがる奴がいないってどういうことだ」
疑問に思って七於が訊ねると、
「当たり前だろ、搭乗員の基準に満たない視力の男だぞ。……これまでの戦績もパッとしたものじゃないし、偵察員は空にいる間、搭乗員に命預けるんだ」
「何だよそれ。……俺が偵察員だったら絶対お前の操縦する機に乗るのに……」
七於が少しばかり憤慨した様子で言うのを見た一斉は一瞬きょとんとし声を出して笑った。
「ははは!お前……ははっ、そりゃ最高だ!あまり俺を甘やかすなって!」
「甘やかしてるわけじゃない、本音だ」
予想外に笑われて七於は少々声音が低くなる。
「すまない、怒るなって。……わかってるよ、ありがとうな。誰に気味悪がられたって、お前が味方でいてくれるから俺はまた空に戻ろうと思えたんだ」
「一斉……」
なぜか小さい子供にするように頭をぽんと叩かれる。とてもではないが、こんな姿同じ整備班の仲間には見せられない。見られたが最後、遠巻きににやにやと今以上に微笑ましく見守ってくる彼らの姿が目に浮かぶ。大人しい性格の奴らだから、変に茶化したりはしないが口以上に雄弁なその視線に耐えながらなんて、まともに機体の整備など出来やしない。そう思った七於は僅かに辺りを見回した。
「誰もいないって」
七於の様子を見た一斉が少し寂しそうな顔で言う。馬鹿、そんな顔をさせたかったわけじゃなくて……。
「……誰かいたらこんなことできないだろ」
僅かに顔を俯け横に座る一斉の唇に自分のそれを合わせた。
「……んなっ!」
驚いた一斉が体勢を崩し後ろにひっくり返る。
「あいた!」
「おい、大丈夫か」
振り向き訊ねると一斉は顔を僅かに赤らめて「馬鹿」と呟きながら可愛く睨んでくる。
「すまん、お前があんまり寂しそうな顔したから」
謝りながら七於が言うと、一斉は立ち上がり尻についた砂をぱんぱんと払いながら「してない」と唇を尖らせる。
「お前が周りを気にしたからだろ」
別に俺はそんなつもりでお前に触れてない、と隣に座りなおし一斉が言う。
「だって俺整備長なのに、子供みたいに頭撫でられてるところなんか班員に見せられないだろ……」
七於の言葉に一斉は「じゃあ二人きりの場所でしてやる」と言った。その幾分か挑発的な目線が妙に色っぽくて、ごくりと喉を鳴らした七於は「よ、よろしく頼む」と妙に的外れな返答をしたのであった。
それから数日後、宿舎で本を読んでいる七於のもとに「七於ーっ!」と一斉が元気よく転がり込んできた。
「わ!一斉、びっくりした、なんでお前ここに……」
周りにいた班員たちも突然現れた一斉に驚きこちらを見つめる。彼らに小さく会釈した一斉は興奮冷め切らぬ様子で、
「入り口でお前の班の守谷に会ったら入れてくれた!それより、」
目をキラキラとさせながら一息入れ一斉が言う。
「俺、また零戦に乗れることになった!」
「なっ、本当か!?」
思わず身を乗り出し一斉に訊ねると、一斉は嬉しそうににこにこと笑いながら「ああ!」と答えた。
話が耳に入った他の班員たちも口々に「おめでとうございます!」と一斉に声をかけた。
「犬鳴一飛ならきっと零戦でも大丈夫ですよ!」
「機体の整備は俺らに任せてください!」
「おお!ありがとうな!また呉松班のみんなが整備した零戦に乗れる!頼むな!」
丁寧にみんなに言葉を返す一斉に班員たちの表情も柔らかくなる。こういうところが一斉が整備員に好かれる一因であると、やけに誇らしい気持ちで七於は見守った。
「試験飛行は明後日だ!それが成功したら戦闘演習をして、最終決定を待つ」
キリッと表情を引き締め、
「今日はそれだけだ、邪魔したな、よろしく頼む!」
来た時と同じように勢いよく整備員の宿舎を後にした。
「野竹さん、良かったですね!」
「俺らますます頑張ります!」
自分のことのように喜ぶ班員たちに笑顔で答える。こいつらが仲間で良かった。こいつらが一斉のことを信じてくれて良かった。
七於は不意に緩んだ目元を隠すように、略帽をぐっと目深に被り直した。大丈夫、一斉ならできる。そして俺はいつまでもお前を待とう。
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