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大丈夫、行ける。と一斉は機体の中一人頷いた。 視界にはぼやけた島の輪郭が映る。怪我をするまでは地上から手を振る整備員たちの姿が見えたが、今では建物らしきものがあるな、というぐらいにしか見えない。 代わりに音が聞こえるようになった。今も元気良く鳴動するエンジンの音に混じり、遠く南の空で遠雷が轟いているのが聞こえる。ここから海の波の音が聞こえると言ったら七於は信じてくれるだろうか。 戦闘演習では、高度三千メートルを超えてから、三機の零戦が一斉の操縦する機体を追尾する形で行う。監督機は少し離れた位置から格闘戦の様子を見て司令部へ報告することになっている。 雲が薄く広がりぼやけた視界の中、耳は僅かな風の音と波の音を聞き取り、そろそろ高度三千メートルに到達することを一斉に伝える。 ブン、と三機の零戦が加速する音が合図だった。一斉は操縦桿を引き機首を持ち上げる。僅かなエンジンの音や風を切る音から敵機の位置を把握し、有利に立てる配置へ敵機を誘導しながら自らの機体を動かす。 来る、機体を捻り斜め上から一斉の零戦を捕らえようと操縦桿を動かす音が聞こえた。相手が機体を動かすより先に一斉は機体の向きをぐい、と変え機銃の当たらない位置に逃れる。同時に一斉の背後を取ろうとした零戦の上に回り込み、正面から機銃の当たる位置につける。 一本。機銃を放っていたら確実にエンジンとプロペラを破損させ、撃墜間違いなしの完璧な読みと操縦だった。 すれ違いざま撃墜されたことを表し、搭乗員が手信号を出して戦線から離脱した。 立て続けに先ほど避けた機体の視界から外れるように操縦桿を横に倒す。滑らかな動きで獲物を狙う鷲のように零戦を操る。耳に入る全ての情報が離れたところから見ているようで、届かない視界の先で相手の搭乗員が自分を探している姿が浮かんだ。 敵機が旋回をしようとする瞬間に合わせ、機体の背後を上から取る。僅かに顔を覗かせた太陽を背負っていることを感じながら機銃掃射の合図を出した。 二本目。尾翼だけでなく翼内燃料タンクを撃ち抜ける位置取りだ。ようやく背後を取られていたことに気づいた搭乗員が悔しさからか腿を拳で打つ音を聞き流し、今まで戦闘に参加せずにいたもう一機の零戦へと機首を向けた。 「赤坂……」 一対一の格闘戦ということか。俺個人ではお前に対して遺恨はないが、お前はどうやら違うようだな……。 一斉の視力では対面した零戦の風防越しに赤坂の表情は見えない。だが彼が以前自分に向けた攻撃的な視線を送っているような気がした。 時間にしてはほんの一瞬だろう。噛み合うはずのない二人の視線が交差したのを皮切りに赤坂が動いた。 ブン!と荒々しいエンジン音を上げ赤坂の機体が高度を上げる。一斉もまたそれを追いかけるように操縦桿を引いた。空を上へ上へと上りながら二機の零戦が競うように空を舞う。監督機が高度を上げ離れた場所から様子を見ているのを聞きながら、零戦の限界高度まで近づいていることに気付き勝負を仕掛けた。 引いていた操縦桿を素早く、けれど丁寧に押し込む。同時に機体を赤坂の機体の下に潜り込むように傾ける。急激に低下して行く高度に頭に血がのぼるのが分かった。機体を押し戻そうとする激しい抵抗を抑えつけ一斉はぐんぐんと海へ向かう。 雲を突き抜けバラバラと機体を打ちつける雨の粒で、もともと見えない視界は完全に灰色の世界になった。 ならば、と一斉は目を瞑る。眼前に真っ黒の闇が広がった。 その闇の中、音が光となっていくつもの軌跡を描く。赤坂の機体がうねりを上げ自分の機体を追っているのが分かった。一斉は押し込んだ操縦桿を再び思い切り引き、急旋回をした。今度は頭からすっと血の流れが抜けていくのを感じる。 だが、耳は健全だ。目が見えていたらきっとチカチカと視界が眩むに違いないが今の一斉には煌めく音の軌跡が聞こえるだけだ。 急激に上昇を始めた一斉の零戦を真上から迎え討つように赤坂の機体が飛び込んでくる。まだ機銃は当たらない。あと、少し、もう少し……。 そして互いに機銃が当たる距離になった瞬間、一斉は大きく機体を赤坂の真上につくように捻り機銃掃射の合図を出した。 「クソッ!」 と赤坂が吠え、機体を叩く音が聞こえた。赤坂の裏をかいた動きで零戦を、いや搭乗員を撃ち抜く位置に一斉は付けたのである。 完全に一斉の勝ちだった。実戦だったら間違いなく赤坂は死んでいる。これで三機全てを一斉は撃墜したことになる。戦闘演習は終わりだ。 基地の方角へ機体を翻した瞬間、機銃筒から空気が擦れるような音がして、反射的に一斉は機首を大きく上に向けた。 「馬鹿野郎ッ!」 赤坂が実弾を撃ち込んできたのだ。一斉は叫び、大きく赤坂の機体から離れる。 逃げるな!と言わんばかりに赤坂がタタタタ、と空に機銃を放つと、一斉と同じように基地へ戻ろうとしていた監督機がすぐさま反転する。風防が開く音がして中から上官が「コラーッ!」と叫んでいる。 一斉は赤坂を挑発しないようにゆっくりと速度を上げ距離を取る。すると赤坂も風防を開け「逃げんな!」と一斉に向けて怒鳴った。 「聞こえてんだろ!俺と戦え犬畜生!偵察員なんかとままごとしてる甘ったれがよ!」 挑発に乗ってはいけないとわかっていたが、仲間を馬鹿にされ、一斉はこの演習で初めて眉根を寄せ険しい表情になった。 「馬鹿野郎が……」 小さくそう呟いて操縦桿を横に倒し赤坂に向け旋回する。相手してやる、と意味を込め空へ機銃を放った。 上官が「やめんか貴様らッ!」と喉が裂けんばかりの大声で怒鳴っているのを無視し、戦闘体制を取る。 そしてエンジンをグン、と唸らせ一気に加速した。赤坂もまた真っ向から一斉に向け機銃を放ちながら突っ込んでくる。ひらり、と躱しながら赤坂の機体の背後につけ、寸前当たらぬ場所へ数回機銃を撃ち込んだ。風防を開き叫ぶ。 「お前こそ死にたいのか!」 赤坂には唸るエンジンの音や風を切る音で一斉の声は届いていないかもしれない。けれど、聞こえたかのように「舐めてんじゃねえ!」と怒鳴り声が返ってくる。ガン、と荒々しく風防が閉まる音がして赤坂が零戦の速度を上げ急上昇する。 「あの馬鹿、まだやるつもりなのかよッ!」 一斉もまた機体を旋回させて体制を整える。またもや二機の零戦が向かい合い、今度こそどちらかの機体に穴が空くかもしれないと一斉が覚悟した瞬間、二機の間を遮るように監督機が飛び込んできた。 「っ!」 赤坂へ向け速度を上げ始めていた一斉は操縦桿を思い切り引き背面飛行の形を取り機体を翻した。赤坂の機体もまた急旋回し監督機を避ける音がし、一斉は小さく嘆息する。 上官が出てきたのだ。これで終いだ。一斉は瞑ったままの目を開き、監督機の横に寄り添った。赤坂もどうやら渋々機体を監督機の斜め下に付ける。風防を開いた上官が叫ぶ。 「赤坂!貴様が先に飛べッ!犬鳴ッ!貴様は俺の後ろを付いて来い!」 赤坂が一斉を撃てぬように指示を出した上官は荒々しくエンジンを唸らせる。 了解、と手信号を送り一斉は機体を監督機の後ろに付けた。 乱暴な動きで赤坂の機体が監督機の前に出て基地へ向けて先行していく。 何はともあれ、戦闘演習は成功した、はずだ。全機撃墜したのだ。 だが、最後の赤坂との実戦闘が評価にどう響いたのかわからなかった。けれど、音だけでも自分は空で戦えるということを確かに実感した戦闘でもあった。赤坂のことは好きになれないが、今は戦時中で、ここは南の最前線基地だ。今はまだ日本軍が制空権を確保しているとは言え、敵は待ってはくれない。一人でも搭乗員を失うのは惜しかった。不思議と自分が負ける気はしなかったから、赤坂を失わずに済んで良かった、という感慨が頭を占めた。多分この考えを知られたら、赤坂にはまた噛みつかれるんだろうな、とため息をつきながら一斉は監督機の後を追い七於の待つ基地を目指した。
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