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ポツリポツリと降り始めた雨の中、一斉は空き地で仰向きになり寝ていた。近づくまでの間、七於の背にはひやりとしたものが一筋滑り落ちたが、すやすやと穏やかな顔で眠る顔を見てホッと安堵の息を漏らす。 そのあどけない寝顔から、搭乗前に少しだけ感じられた強張りのようなものがなくなっていることがわかった。 憑き物が落ちる、というのだろうか。迷いや悩み、不安が完全に吹っ切れたような穏やかな顔で、だから一斉を起こさないように七於はそっと抱き上げた。 名前を呼んでしまったのは無意識で、けれど一斉は「俺は大丈夫だ」と言うように頭を七於に擦り寄せた。甘えたような仕草が胸の内をくすぐる。 好きだ、と思った。一斉が好きだ。 今日も無事に帰ってきてくれて良かった……。 強まる雨足が一斉を起こすことのないように、七於は急ぎ足で宿舎に向かった。 向かった先は搭乗員ではなく整備員の宿舎だ。 搭乗員の宿舎は一斉が寝起きしている場所がわからないし、誰かに聞いているうちに起きてしまうだろうから七於は自分の寝床に寝かせてやることにした。この時間はまだほとんどの整備員は機体の整備をしているため人がいない。 支給された薄っぺらい煎餅布団の上にそっと一斉を下ろしたが、深い眠りなのか一斉はピクリとも動かず、変わらぬ穏やかな寝息を立てている。 起きたら水を浴びさせてやろう。と七於は手ぬぐいや着替えを用意した。きっと喉も渇いてるだろうからと外に取りに行き、ついでに班員たちが帰ってきた零戦を整備している整備場まで足を運んだ。 「あ!野竹さん!犬鳴一飛は大丈夫でしたか……?」 駆け寄ってくる班員たちへ、事の顛末を話す。 「それじゃ俺らしばらく宿舎には戻らないようにしますね」 「あ、隣の班の連中にも言っておいた方がいいんじゃないか?」 「いや、そこまではしなくて大丈夫だ。疲れたのか良く寝てたし、少しぐらいの物音じゃ起きないだろ」 そう言った七於に班員たちは口々に言った。 「いやいや!犬鳴一飛の耳ですよ!実弾を交わして撃墜の位置に付けるなんて、神業です!」 「俺らが宿舎に近づいたらそれだけで起こしてしまいそうです。工具うるさいですし」 七於が思っている以上に彼らは一斉の耳を信じてくれているようだ。班員たちへの里心のような温かな気持ちがじわりと胸の内に広がる。 「わかったわかった。だが、隣の班の連中には言わないでいい。一斉の耳の話はまだそんなに広まってないし、本当に零戦に復帰できるかはまだわからんからな」 はい!と揃って返事をした班員たちを七於はうんうん、と笑顔で見渡し一番近くにいた守谷へと声をかけた。 「一斉の機体の様子を確認しておきたい。赤坂一飛の操縦してた零戦も気になるしな。着陸時に嫌な音がしてたろ?」 「こちらです。赤坂一飛の搭乗した機体は今技術班と整備中です。翼と脚が少し破損してしまいました……。犬鳴一飛の機体はまだそのままにしています」 守谷に案内され、七於は一斉の搭乗していた機体をざっと確認した。 特別操縦の癖は見当たらなかったが、耳を頼りに操縦したのだ。ひょっとしたら通常の整備では物足りない部分もあったかもしれない。それは後で本人に聞くことにし、もう一機については経過報告をするようにと守谷に伝え、七於は水を汲んでから宿舎の一斉の元へ戻った。 整備員用の宿舎へ戻った七於は一斉を起こさないようにと静かに戸を開けた。 整備場へ向かう時に見たのと変わらぬ様子で眠る一斉の枕元へ、そっと腰を下ろす。穏やかなその寝顔を眺めながら、滑らかな頬に、瞼に残る傷跡に、うっかり手を伸ばしそうになるのを七於は必死に堪えた。 しばらく飽きずに眺めていると、ふるっと瞼が僅かに震え一斉が目を覚ました。ぼんやりとした焦点が七於を捉える。 「おはよう、一斉」 「ん……はよ……。あれ、ここ……」 掠れた声と共に重たそうに身体を起こす一斉に水を手渡す。 無言で受け取り一気に飲み干した一斉にお代わりを注いでやりながら答えた。 「整備員の宿舎、俺の寝床だ。搭乗員様の寝台に比べたら粗末なもんだけど、お前俺が迎えに行ったら寝てたんだよ。だからここに連れてきた」 ゴクゴクと音を立てて水を飲みきった一斉は、すっかり覚醒した様子で言った。 「そうだったのか、すまない。俺汗まみれだったのに悪いことしたな……。というか腕痛えし、身体ベタベタするし、水浴びてえな……」 「気にするな。それよりそう言うと思ったから外に盥と水用意してるぞ」 七於の言葉に一斉は「何っ!?本当か!」と目を輝かせた。 「ああ、綺麗な手拭いもあるから、ほらこっちだ」 七於は難儀そうに立ち上がった一斉を支えながら、用意していた着替えを抱え外へ向かう。雨は既に止んでいて、濡れた緑の香りがあたりに漂っていた。 ラバウルが前線基地の中では比較的環境に恵まれているとは言え、規定の時間外での入浴は許されていない。だから肉体労働に従事し、全身汗や泥に塗れた後は各々海水風呂と称し海で行水をするか、ヒルなどに気を付けながら川の水を掬って僅かな量で身体を流すのがほとんどだ。前者は豊富な水量の反面、暫く経つと潮で身体がベタつくし、後者は基地周辺には河川と言える程の衛生的な川がほぼないため、どうしても満足のいく行水はできない。 どちらにしても今の一斉にさせるには身体がつらいだろうから、七於は風呂用の水溜めから少々拝借したのだった。盥一杯ほど。 真水の張った盥を見て一斉が「おお!」と感嘆の声をあげた。 「七於!お前どうしたんだこれ!」 風呂みたいじゃねえか!と緩む口元を隠せないまま一斉が早く早くとせがむ。 はいはい、と苦笑しながら七於は上手く腕を動かせない一斉を手伝い服を脱がせた。 張りのある健康的な体躯が目の前いっぱいに飛び込んできて、七於は胸の鼓動が早くなるのを感じた。 一斉の陽に焼けてない色白の背中を滴る汗が宝石のように煌めく。 七於はなるべく白く滑らかな下半身を見ないようにしながら、全裸になり浅い盥に浸かった一斉の身体へ桶で水をかけてやり、手拭いで身体の後ろ側、首筋や背中を擦ってやる。 「ああー、極楽だ……」 目を閉じうっとりした一斉の表情で七於は自らの下半身の奥に熱が湧き上がるのを感じながら、時折触れる肌の温度に気付かないふりをした。 最後に頭を洗ってやると、ラバウルの大地に舞う灰や砂埃で汚れた髪で、あっという間に水は黒くなった。桶に残した綺麗な水と手拭いで顔を拭ってやったら終いだ。 再び七於の手を借り着替えの服を纏った一斉は、水を浴びる前より確実に白くなった顔に満足そうな笑みを湛えている。 「ありがとうな!」 と満開の笑顔が咲いたと思ったら一斉は犬のようにプルプルと頭を左右に振った。七於の胸元にいくつもの水滴がパタパタと飛び、斑らの模様を作る。 「お前も着替えた方が良くないか?」 それを見て一斉は冗談めかして笑いながら言った。 「そうだな、そうする」 と七於は苦笑し答え、片付けを始めた。一斉は手伝おうとしたが、七於は軽く微笑みながらやんわりとその手を退かした。 「せっかく綺麗になったんだからそのまま休め」 な?と濡れたままの頭をぽんぽん、と優しく撫でてから欲情の滲み始めた顔を見られたくなくてサッと背を向ける。 そろそろ限界だった。 一斉の無防備すぎる姿が、友情以上の感情を抱いている七於の劣情を煽るように刺激する。 いつ自分の箍が外れて、その辺の灌木の茂みへと一斉を連れ込み、欲望のままに身体を奪ってしまうか分からなかった。幸いなことに上機嫌な一斉はそれに気付かずに「おう!ありがとうな!」と言い軽い足取りで自分の宿舎へ戻って行った。
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