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「なんだと!貴様、整備員のくせして!」 搭乗割を見に行った帰り、零戦の整備場を横切ろうとすると、地上に戻ってきたばかりなのかハーネスをつけたままの搭乗員が怒鳴りながら機体を蹴る姿が目に飛び込んできた。 搭乗員と向かい合った背の高い整備員を囲むように数人の整備員たちがどう止めたものかと右往左往している。 「おい!」 機体が蹴られる様を見て我慢できずに口を挟んだ一斉に、その搭乗員はガラ悪く「ああ?!」と振り向いた。 振り向いた顔を見て、その顔が揉め事の火中にいることを納得した。隊は違うが、たびたび悪い話題に出る赤坂という搭乗員だ。 「喧嘩するのは勝手にしたらいいが、その零戦はお前だけのものじゃないだろ。怒りを機体にぶつけるな」 南の最前線基地、花の航空隊が集うラバウルで専用機が持てるのはごく一部の凄腕パイロットだけだ。零戦は日々基地から飛び立ちグラマンを始めとする数々の連合軍の航空機と死闘を繰り広げる。蹴りつけられ不具合を抱えた零戦に乗るのは蹴飛ばした本人とは限らないのだから、皆が使うものは丁寧に扱うのが正というものだ。 「お前には関係ないだろう!」 獣だったら威嚇する唸り声が聞こえるような険しい顔で搭乗員がこちらに歩み寄る。 「……なんだ、お前犬畜生かよ」フン、と鼻を鳴らし意地悪くにやつく口元を見て眉根が寄るのを感じた。 「犬鳴一飛だ。……赤坂、貴様人の名前も覚えられないのか」 売り言葉に買い言葉で返した一斉の服を掴み赤坂が言う。 「戦績を挙げてから物言いやがれ!貴様みたいな冴えない搭乗員が首を突っ込むんじゃねえ」 「戦績は関係ないだろう、何があったが知らんが機体を蹴るなんて貴様こそ搭乗員の風下にもおけねえな。そこにいる整備員たちが朝から晩まで丹精込めて整備して、俺らは初めて空に行けるんだぞ」 いつの間にか搭乗員同士の口喧嘩となりつつある状況を見て、最初に言い合いをしていた背の高い整備員以外はそろりそろりとその場を去ろうとしていた。当然だ、搭乗員と整備員では階級も待遇も大きく異なる。だから一部の搭乗員は整備員を相手に大きな顔をするのだ、ここにいる赤坂のように。 「はっ、しゃらくせえ。戦闘機は飛べて当たり前だ。それなのに整備員どもが温い仕事してるから機銃が当たらねえんだ!」 「飛べて当たり前じゃない!航空機が飛ぶのには整備員たちの整備はもちろん、部品ごとの担当者が入念な準備をしているからだ。……もちろん、お前の腕が無けりゃ飛ばないのも確かだが、だからと言って整備員にそんな態度するな!」 否定されるだけだと思っていた赤坂が一斉の一言で白けたような表情をした。 「……っち、くだらねえ、時間の無駄だ」 苦々しく言い放ち、掴んだままの一斉の胸元を乱暴に押して赤坂は歩き去った。 不意に押されてよろけた一斉はその腕を黙って見ていた整備員に引っ張られ、逆に彼の胸にもたれてしまう。 「あ……わっ」 「すまん、強く引きすぎた」 耳に心地よい低い声が頭の上から降ってくる。曲がりなりにも帝国海軍の航空隊員が男の腕に収まっているなど、些かの恥ずかしさを覚え、そっと身体を離し一斉は言った。 「その、機体、大丈夫か。蹴られたところ」 「え?」 一斉が機体を心配するなど思っていなかったのだろう、男は少し目を細めて聞き返した。 「整備中の機体だろ。俺じゃ意味がないかもしれんが、同じ搭乗員がした過ちだ。すまなかった」 頭を下げる一斉の上からまたもや声が降ってくる。 「馬鹿、アンタのせいじゃないだろ。あんな奴の温い蹴りぐらいで傷がつくジュラルミンじゃねえよ」 ふっ、と笑う気配があり顔を上げると男は笑みを浮かべて「お前いい奴だな」と一斉に言った。 日差しを避ける為に敷かれたバショウの大きな葉の隙間から熱帯の銀色の光が濃い影を引き連れて男の周りに風と共に揺らめく。 彼の首筋を伝う汗が煌めきながら熱せられた土の上にパタリと落ちた時、自分の心からも何か熱くて透明な気持ちが同じように溢れたのを一斉は確かに感じた。 「あ、いっけね……その、先程はありがとうございました。お見苦しいところを助けていただき」 呆けたように男の顔を見つめる一斉に向かって、今度は男が頭を下げた。 「へ、えっ?あ、いや、気にしないでくれ……ってなんで急に」敬語になるんだという言葉が出る前に男は顔を上げて支給された整備帽を外し非番の形で礼をする。 「呉松整備班、野竹七於整備兵長であります」 野竹と名乗った男は顔つきをキリッとさせてかしこまりながら言った。勢い押されて一斉もつい、 「犬鳴一斉、一等飛行兵であります」 とかしこまって答えるのであった。 「犬鳴一飛、先程は仲裁に入っていただきありがとうございました。おかげでおおごとにならずに済みました」 人好きのする笑顔で七於が礼を言った。 「あの、俺は搭乗員だからとか階級がどうだとか気にしないからお前も敬語はやめてくれ」 どう見ても自分の方が歳下だ。年長者は敬えと育てられたし、整備兵長であるなら実質的な階級は彼の方が上だ。 「しかし……」 「階級で言うなら野竹整備兵長、あなたの方が上だ。それに……俺はお前のあっけからんとした物言いが気に入った。だから俺には先程のように話しかけてほしい」 真っ直ぐな目で自身を見つめる一斉を見て、七於は小さく嘆息し「……わかったわかった」と白旗を揚げたのであった。
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