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一斉が無事零戦部隊に戻り搭乗割に従い空へ出撃する日々が戻ってきた。 これまでと違うのは明らかに撃墜数が増えたことだ。 基本的に零戦部隊は三機一組で陣形飛行を行う。第一機目が撃墜されたら第二機目、それが撃墜されたら第三機目、と順繰りに敵機と戦うのが通常だが、一斉が配属された邀撃部隊は襲い来る敵から艦船や基地を守るため、陣形飛行をすることはほとんど無い。必然、敵味方入り乱れる空中格闘戦となるため、何にも増して搭乗員の手腕が大きくものを言う。 その中で毎回必ず成果を上げて帰還する一斉の存在は次第に基地全体に広く知られるようになっていった。 「おい聞いたか。また狛犬耳が星あげたらしいな」 「狛犬耳って誰だよ」 「お前知らないのか?犬鳴だよ、犬鳴一斉」 とある日の午後、整備曹長に呼ばれ不足し始めた部品についてどう賄っていくか、七於を始めとする各整備班班長たちが頭を悩ませた帰り道、七於の耳に聞き慣れない単語と一斉の名前が飛び込んできた。 技術班の者にどこまで部品の修正を補ってもらうか、どう交渉したものかと一人うんうんと小さく唸っていた七於の思考は一気に霧散し、代わりに一斉のことが頭を占める。 「犬鳴って、そんな奴いたか?どこの部隊だ?」 天下の犬鳴一斉を知らんとは何事か、邀撃専門の零戦部隊で日夜日本を守るべく、南洋の大空を飛び回る逞しくも可愛らしい俺の恋人だ!と割って入りそうになるのをグッと堪えて、七於は声のする方へそっと近寄って行った。 「お前何も知らねえのな」 会話の相手がため息を吐きながら答えるのに、そうだそうだと七於は大きく首を縦に振った。 「元は零戦部隊にいた操縦員でよ、ほら、赤坂とかがいる隊の……」 「あー、赤坂な……」 さすがというべきか、悪い方の意味で基地中に名の知れ渡っている赤坂のことは知っていたようだ。 「そんなにパッとした戦績がある奴でもなくてさ」 なんだと!と言い出しそうになる口を思わず両手で押さえて七於は会話に耳を側立てる。 「まあ、挨拶とかきちんとするし、なんかいつも明るくて性格は良い奴なんだけど」 そうだそうだ、分かってるじゃないか。でも性格だけじゃなく見た目もお前なんかよりずっと良いからな。 と七於は腕を組みつつ、死角となり姿の見えない相手へと心の中で居丈高に言い放つ。 「ふーん、で、その地味な奴がどうしたよ」 一斉のことを知らない片方の人物が飽きたような声音でそう言うと、相手は待ってましたと言わんばかりにどこか食い気味に返答する。 「ここからが本番な!なんでも戦闘機乗りとして致命的な怪我を両目にしたってのに、代わりに耳がえらい良くなったんだと」 「はあ?耳が良くなるってなんだそれ」 話を信じていない様子の片方に七於は内心で拳を握った。 七於の眼裏に、血塗れになりながらも何とか帰投したあの時の一斉の姿が容易に蘇る。 か細い呼吸がいつ止まってしまうのか、考えたくないのにそればかりが頭の中で渦巻いて……。寝台の上、両目に真新しい包帯を巻いたその姿がとても痛々しくて、そして一斉本人が薄らと感じ取り覚悟を決め始めていた絶望の気配が、どれだけ七於を恐怖の淵へと落としたか。 失明しなければ良い。けれど、飛行機を愛して、空を愛した一斉から翼を奪い取ることのなんと残酷なことか。 空を飛ぶことに純粋でまっすぐで誠実で。 だから七於は信じている。神と呼ばれるような大きなとてつもない運命の力が、一斉に類稀なる聴力を与えたのだと。視力は落ちたままでも空戦も出来る程の聴力を、一斉だから得ることが出来たのだと。 視力が落ちても、耳が良くなっても、一斉の心は何一つ変わらないことを七於は知っている。そしてきっとこの大空のどこかにいる神様もそれを知っているからだと。 「……視力が落ちても耳が良いから空戦もこなすんだぜ」 「そんなのあり得ねえだろ」 馬鹿にした様子ではないが、心の底からあり得ないと思っていることが明白な声音で一斉を知らない一人が言う。 「俺も実際に見たわけじゃないけど、戦闘演習に参加した奴と同じ隊にいる奴から聞いたんだから信憑性は高いぞ」 「なんだよ、その友達の兄貴の恋人の知り合いの話みたいなやつ……」 「う、うるせえな!そこまで他人じゃねえよ!……と、とにかく!搭乗員たちだけじゃなくて、整備員たちの間でも噂になってんだぞ」 「えー」 実際に見たわけではない、の一言から途端に実話から根も葉もないよくある噂話の一つだと思われたのか、その声は完全に信用していない色をしている。 「本当だ」 その疑いの声音に遂に我慢ならずに七於が会話をしていた二人の前に現れそう言うと、不意に飛び出してきた七於に対処出来ない様子の二人はギョッとした表情で固まった。 「な、なんだよ、お前……」 「呉松整備班の野竹整備兵長だ」 「呉松…野竹って、お前まさか……あの霞ヶ城中将直々に犬鳴の零戦の整備任されったっていう、あの野竹か!?」 確かにそれは事実だが、霞ヶ城中将の名前まで出されてこうも言われると飛び出したのはこちらだが、なんだか全身がこそばゆくなっていく。 「あ、ま、まあ。そうだが……」 七於が若干照れつつそう答えると、 「ほら!こいつがその噂の狛犬耳の専属整備員だよ!」 と疑われていた一人が興奮したように声高々に仲間に言った。二人は防暑服姿で一人は畑仕事帰りなのか泥に塗れた手拭いを持っていて、もう一人は事務方か通信科なのだろう、束ねられた書類を大事そうに胸に抱いていた。 手拭いを持った方が内から溢れ出る興味を隠すことなく七於に詰め寄る。 「なあ!犬鳴の耳が良いってのは本当なのか!」 その勢いに押されつつ「あ、ああ。そうだ」と七於が答えると「ほれ見ろ!」と何故か自分のことのように誇らしげな様子で書類を抱いた仲間へと言う。 「なんで耳が良いってわかんだよ」 怪訝そうに、けれど興味を抑え切れない様子で書類を抱いた方が七於に問いかけた。 「俺は整備員だから実際にあいつの飛行を空で見たわけじゃない。でも離着陸も完璧で、視力が弱くなったことなんて微塵も分からなかった」 一斉の視力が弱くなってからの試験飛行や、戦闘演習の様子を思い返しながら七於は話を続ける。 「試験飛行の時、あいつは言ってた。今まで整備帽を振る俺ら整備員たちの姿ははっきり見えたのに、視力が落ちてからはぼんやりと滲んだ何かにしか見えてなかったって」 七於の真剣な声に二人の表情は心なしか緊張したように見えた。 「……でもぼやけた視力の分、嘘みたいに耳が良くなったって。高度三千で、波の音が聞こえるんだ。じゃなきゃ、零戦三機に追われる戦闘演習で全員に勝つなんてできないだろ」 戦闘演習の時、赤坂は実弾を放ってきた。不意打ちのそれを、音だけで避けるなど飛行時間を幾度重ねても普通の操縦員には不可能だ。 弾が発射されてから避けるのでは、いくら運動性能が高いとは言え距離が近くなればなるほど、それは不可能にも近くなっていく。 つまり弾が銃身の内側を擦る僅かな音を瞬時に聞き取り、銃口から放たれる前に回避動作に入らなければならない。 それが出来たという。 まぐれでなく、一斉にはそれが出来るのだ。 「試験飛行も、戦闘演習も、どっちもちゃんと上官が見てるんだ。それをもとに司令部がやれと言ったんだ。真実以外の何物でもねえよ」 それにあいつは飛ぶなと言われても、飛べる身体がある限り空に行こうとするよ。 戦闘機を整備する七於の元にやってきては、簡単な整備や清掃を手伝い嬉しそうにする一斉の笑顔が目に浮かび、七於は微笑む。 「……な?言ったろ?犬鳴はすげーんだって。ま、まあ俺もここまで凄いとは思ってなかったけどさ……」 信じられないものを聞いたと目をパチクリとしている通信科に向かい、手拭いを持った方が言った。 「ああ……。俺も一度見てみたいよ、その犬鳴の神業をさ」 「俺も」 明日あたり搭乗割でも見に行ってみようぜ、と段々調子を取り戻してきた二人が意気軒昂に言い合う様子を見て、七於は内心で得意げな笑みを浮かべる。 想い人が手放しに褒められ賞賛されることの、なんと誇らしいことか。さすが天下のラバウル、神の遣わした荒鷲だ。と密かに打ち震えていたところではた、と思い当たる。 そういえば結局「狛犬耳」とは一体何なのだろう。 七於は咳払いをすると「ところで」と切り出した。 「狛犬耳ってなんなんだ?」 さっきちょっと耳に入って。と続けると、手拭いを持った方が意外そうな顔をして答える。 「なんだ、知らないのか?犬鳴って神社の息子なんだろ?神社と言えば狛犬、耳の良くなった犬鳴、犬繋がりで狛犬耳ってわけ」 誰が言い出したのかは俺も知らんけどな。と手拭いを肩にかけ笑いながら言うと、通信科の方が脱力したように言った。 「なんだよ、犬繋がりで連想してったとか……」 「あだ名なんてそんなもんだろ」 確かに、と思いつつ「狛犬耳かぁ」と七於は呟いた。 一斉が聞いたら何と言うだろう。案外、その耳には既に届いているのかもしれない。 そう思いつつ、二人と「じゃあな」と別れて七於は午後の陽射しの下、遠くから聞こえる零戦の唸るようなエンジン音に耳を済ませて歩き出す。 『俺は犬じゃなくて荒鷲だっつうの!』 と少し不服そうに頬を膨らます一斉の姿が目に浮かぶ。 そして自分はきっと「まあまあ」と収めつつ、そんな一斉の様子を口元が緩むのをバレないように苦心しながら可愛いと思うのだろう。 早く聞いてみたい、宿舎へ向かう七於の足取りはどこか先程までより軽かった。
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