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狛犬耳騒動からしばらく経ったある日。 「おかえり、一斉」 索敵任務を終え機体から下りようとする一斉を手伝いながら七於は声をかける。 「ああ、ただいま!」 今日も無事に帰ってきてくれた。一斉の明るい笑顔を見て七於は心の中で胸をそっと撫で下ろす。 一斉が手に入れた類稀な聴力とこれまで地道に努力し飛び続けてきた飛行技術を、七於は信じている。だが信じていることと心配する気持ちが、時に心の中で同居するのも事実である。 一度それを本人に伝えたところ、一斉は七於の心配を吹き飛ばすようなカラッとした笑い声をあげた。 「馬鹿だなぁ、そりゃ普通だって!どんな凄腕の航空機乗りだって墜ちる時は墜ちるんだ。それを知ってる海軍の連中は、みんなお前と同じ心持ちだよ」 笑い飛ばした後にどこか真面目で僅かばかりの寂しさを目の奥に浮かべながら一斉が言う。 「でも言霊って言うだろ?良い言葉は良い結果を、悪い言葉は悪い結果を招くんだ。俺はさ、神社の息子だからかもしれないけど、それを何となく肌で感じるんだ。だから七於、心配でもそれを上回る信じてるの気持ちを俺に聞かせてくれよ」 そうしたら、俺はいつでもお前のもとに帰れるから。 そう告げた一斉の瞳にもう悲しみの色は宿っていなかった。代わりに宝石のようにキラキラと輝く確かな生命力がそこには存在していた。 その言葉と瞳の輝きをいつも頭の片隅に留めて、七於は今日も一斉の帰りを待っている。 飛行帽を脱ぎながら歩く一斉にそのまま付き添い、七於は飛行の様子をつぶさに聞いていく。七於の班が一斉の機体を見るようになってから、もうすっかりおなじみとなった二人の習慣だ。 「んー、今日はなんか操縦桿が少し手前につっかえるような感じがして気になったな」 「操縦桿が……?」 「あっ、いや、俺の気のせいかもしれないけど、引きがほんの少しだけ悪いっていうか」 「いや、後で確認しておくよ。少しでも何かあればどんなことでも教えてくれ」 一斉は操縦をする際に気になったことはどんなに細かいことであっても必ず伝えてくれる。七於たち整備員は搭乗員たちの命を乗せる航空機の整備を任される身として、もちろん日々全ての機体に等しく細心の注意を払い整備するよう心がけている。しかしやはりどうしても空でないと気付けないことは往々にして発生する。 帰らない機体があった日は、遥か上空で自分たちが予期しなかった機体不良が原因となったかもしれないと思うと、心を潰されるような喪失感と無力さで打ちひしがれそうになる。 言葉にはしないがそう思っている整備員は少なくないだろう。しかしその大きすぎる感情に飲み込まれては戦地でやっていけないのもまた事実だ。 自分たちの整備の腕に誇りがある。班員たちも文字通り血の滲む努力と思いで整備の腕を日々上げている。南洋の空を駆ける荒鷲たちの機体の整備は、自分たちでないと務まらないという自負もある。 けれど、実際に航空機を操縦したことのある整備員は皆無に等しく、雲の上はるか上空での機体の様子が見えない以上はどうしたって不安を拭いきれない。 だからこそ、一斉のようにどんなことでも報告してくれる搭乗員は貴重だ。七於は日頃から班員たちには必ず全ての搭乗員へ操縦時の機体の様子を伺うようにと指示を出している。 鬱陶しいと邪険にされることも稀にあるが、搭乗員にとっても命を預ける大事な機体だから、大概の搭乗員は空での様子を話してくれると班員たちは言う。 一通り一斉から報告を受け、備忘のために走り書いた紙をポケットにしまいながら七於は一斉を休ませるために整備場の裏手へやってきた。 ここは建物の陰になっており直射日光に晒されることがないため、日中でも他所と比べると涼しく感じる。流れ着いた不恰好な流木を一斉と運び込み、表面の凹凸を削ったり磨いたりして間に合わせの長椅子を作ったのは少し前のことだ。 整備の合間や飛行の後などちょっとした休憩を取れるようにしたここは、建物の裏手ということもあってか比較的物静かで過ごしやすい。今では二人にとってのお気に入りの場所の一つとなっている。 「七於」 「ん、なんだ?」 不意に服の裾を掴まれ七於は足を止めて一斉へ向いた。 ザ、と足元の砂が鳴り、それを皮切りにしたようにどこか静寂な空気が辺りに広がったと七於は感じた。 「あのさ……次の搭乗から、俺の目……塞いで欲しいんだ」 そう言い放った一斉は、その大きな瞳に燃える闘志を宿した真剣な面持ちで七於を見つめている。 目を、塞ぐ? 「それは……」 どういうことだ、と続けようとした七於の眼前に白い包帯が突き付けられた。 「これで、お前が塞げ。……音に集中するために」 怪我によって落ちた視力は日常生活を送る上では問題はないが、空を駆ける搭乗員としては致命的だ。しかし何の因果か、常人離れした聴力を得た一斉は、現在ほとんどを音に頼りながら飛ぶという他に類を見ない特殊な搭乗員として名を馳せている。 「でも……」 七於は言い淀んだ。視力を完全に塞ぐというのは操縦に関わる全ての物の位置を正確に覚えている必要がある。 「……操縦桿やエンジンスイッチなんかは分かるだろうが、計器類の数字は全く見えなくなるってことだぞ、お前それでも……」 分かるのか、という問いかけを七於は飲み込んだ。変わりにすぐ後に続くように一斉が 「分かる」 と短くもはっきりとそう言い切った。 一斉がラバウルに赴任してからだいぶ経つし、目に怪我を負い視力が落ちて、邀撃部隊に配属されてからもしばらくが経った。 そもそも一斉はラバウルに来る以前からずっと零戦に乗っており、零戦に関しての飛行時間はかなりの数字になる。 「お前がそう言うなら、分かった」 一斉の覚悟を受け止め、その一端を共に背負う気持ちで七於は重厚に頷いた。 「だが、目を塞ぐというなら……自分でやるのでは駄目なのか?」 そう言えば、と突き出された包帯を受け取りながら七於は浮かんだ疑問を訊ねた。 すると一斉は僅かに顔を赤くし、ふい、と顔を明後日の方向へと向けて言う。 「お…御守りみたいなもんだよ!お前が付いてるってこと、空でも感じたいの!」 悪いかよ!と拗ねたように言う一斉の頬が温度を増してじわじわと染まっていく。 「一斉……」 七於は辺りを素早く見渡して腕の中に一斉を閉じ込めた。 「ばっ、何してんだこんなところで!」 「お前が可愛すぎること言うからだろ」 溢れ出しそうな愛おしさを堪えるため、険しく眉根を寄せながら七於は一斉の正絹の白マフラーを素早くずらして首筋に噛み付いた。 「っあ……!」 ビクン、と大きく身体を跳ねさせ一斉が甘い声を洩らす。 その自分だけが知る声音にドクドクと七於の鼓動が音を立てていく。今すぐ一斉の身体をひん剥きたいという欲望をなんとか抑えて七於は身体を離しながら「すまん」と謝った。 「……謝ることじゃないだろ、外ではやめろと思うが」 と更に顔を赤くした一斉がそれを隠すようにマフラーを巻き直してぼそりと言った。 自分は一斉に甘いが、一斉もまた大概だ。 二人きりになれる場所の少ないことを恨めしく思いながら、七於はまだ使っていなかったハンカチを取り出し包帯を丁寧に包んだ。 ふーっと深呼吸をして内に湧いた欲望を逃してから、改めて一斉に向き直り姿勢を正す。 「包帯だけでなく俺の心も全て、空へ持って行け!」 七於はグッと拳を固く握り、一斉の胸元に押し当てながら力強く告げる。 「お、おう」 一斉は一瞬驚いた顔をして、けれどすぐに笑顔になった。 七於は名残惜しい気持ちを押し殺し一斉の髪を柔らかにひと撫ですると、「行ってこい!」と任務報告へ向かわせた。 元気に駆けて行く一斉の背を見つめながら、包帯を包んだハンカチを今度は自らの胸にそっと押し当てる。 自分の心の一欠片でも包帯に溶け込むようにと、七於は長い時間そうしていた。 仏壇には手を合わせるし、神社に行けば願掛けもする。けれど七於は生まれて初めて心の底からの祈りを確かにその身と心で感じていた。 帰ってこい。……必ず帰ってこい。いつまでも変わらずにお前の居場所を守り続けているから。
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