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ブラインドゼロ、という言葉が七於の耳に入り始めたのは一斉が両目を包帯で覆うようになってから数ヶ月後のことだった。 「野竹さん、知ってますか?」 昼食休憩中、頬に米粒を付けたまま班員の守谷が意気揚々と声をかけてきた。 「ん?何がだ?」 というかお前、米粒付いてるぞ。と苦笑しながら七於は自分の頬を指差し守谷に教える。 「へ?あっ、」 頬に手をやり指先に付いた米を急いで口の中に入れ、守谷は照れ隠しに坊主頭を掻いた。 「そう!俺の米粒はよくてですね、犬鳴一飛…じゃなくて犬鳴二飛曹が」 守谷の言い間違いに七於は再び温かい苦笑を漏らした。 一斉は着々と積み上げてきた星により今や一飛から二飛曹に昇級し、同じく七於も整備の腕や班員たちの指導力を評価され整備兵長から一等整備兵曹へと昇級していた。しかし呉松整備班はこれまで大掛かりな人員異動はなく、ひたすらに零戦の整備を続けてきたため階級が変わったとして班員たちとの接し方に大きな変化はない。 そんな呉松整備班の班員たちと出会った当初から変わらず親しく交流してきた一斉は、良い意味で彼らにとってあの頃のままの犬鳴一斉なのだ。 「一斉がどうした?」 七於が問いかけると守谷は拳をグッと握り目を輝かせて言った。 「通信科の奴から聞いたんですけど、連合軍の奴らの中で犬鳴二飛曹のことが話題になってるらしくて!」 「連合軍の中で、一斉が……?」 通信科ということは敵の無線通信を傍受したり、暗号を解析した結果からそう言っているのだろう。けれど傍受した通信は全通信の中の一部にすぎないはずだ。その一部の中でそんなに一斉の名前が敵国の無線内で登場しているということが示すのは……。 七於と一斉の仲の良さは班員の誰もが周知の事実で、不安げに眉根を寄せた七於を見て守谷が慌てたように続ける。 「いやあの!悪い意味ではなくてですね!なんでもあだ名が付いているそうなんです!」 「……あだ名?」 「はい!基地の中じゃ犬鳴二飛曹『狛犬耳』って言われてますけど、敵の間じゃ『ブラインドゼロ』って呼ばれてるらしいです」 「ブラインド、ゼロ……?」 声を潜めて七於は聞いた言葉を繰り返した。戦時中だから連合軍の使用言語をカタカナで表現したり読んだりすることは原則禁じられている。しかし俗語や隠語として兵たちの間では密かに使われることもしばしあるが、親しい仲間内だけで留めるよう暗黙の了解となっている。 守谷も周囲を見渡し、会話が聞き取れる程近くには誰もいないことを見て改めて言った。 「はい、ブラインドゼロです。何でも包帯で目を隠してて見えないはずなのに、どんどん敵機を撃ち墜としては回避する零戦乗り。そこからブラインドゼロと恐れられるようになったとか」 なんでもブラインドって盲目って意味らしいですよ。 そう守谷が付け加える。 航空機乗りたちにとって一番大事なのは視力だ。蒼一色の大空の彼方にいる敵機をいち早く見つけることが文字通り生死の分かれ目となる。それは味方も敵も関係なく世界共通の認識だ。 一斉には『狛犬耳』とあだ名が付けられている。神社の息子で、失った視力の代わりに並外れた聴力で見事零戦の邀撃部隊に返り咲いたその姿がいつしか噂となって広まり、気付けば随分と縁起の良いあだ名が付いていた。 味方だけに飽き足らず、敵の間にまで一斉のその類稀な能力が広がりはじめているのは、操縦員としては誉れ高いことこの上ないだろう。 しかし、一斉を一個人として恋しく想う男の身としては、あだ名なんかついて連合軍にその存在が広まれば、空中戦の時により注意を引きつけかねないのではないかと心配する気持ちばかりがどんどん膨れ上がっていく。 黙りこくった七於を見て守谷が不安げな顔をして言う。 「……あの、自分、余計なことをお伝えしてしまったでしょうか……」 てっきり七於も喜ぶと思っていたのだろう、守谷が申し訳なさそうにしているのを見て七於は慌てて弁明する。 「いや!ちょっと驚いただけだから気にするな!むしろいつも一斉のことを気にかけて、こうやって俺に教えてくれて助かってるよ。ありがとうな、守谷」 不安を心の奥底に押し込んで七於は笑顔を浮かべる。 そうだよな、俺が心配したって敵は待ってはくれないし、一斉だってじゃあ飛ぶのをやめるかと言ったら決してそんなことはない。 「敵国の奴らに恐れられる零戦乗りの機体を整備できるんだ。こんな整備員冥利に尽きる誉れは他にないよ」 心からのその言葉を守谷に告げると、落ち込んでいた守谷の顔が明るくなっていく。 「はい!その通りです!ブラインドゼロの零戦を預かるんですもん、俺らみんな一層頑張ります!」 片手を胸の前でグッと握り、守谷は生き生きとした表情を浮かべながらそう言うと、「じゃあ先に整備場に行ってます!」と元気に駆けて行った。 「……ブラインドゼロ、かぁ」 先日基地内で『狛犬耳』とあだ名されていると伝えたところ、一斉は何とも言えない顔になった。その時のことを思い出しながら、七於は残った昼食を急ぎかっ込んでいく。 『なんだよ一斉、その顔は』 『ええ……だって、なに、こまいぬみみ?なんじゃそりゃ』 『お前神社の息子だし、耳良いし…狛犬は縁起が良くていいじゃないか』 『やだよ、だって俺の耳は別に狛犬の耳じゃねーもん』 普通の耳だもん。と、むすくれたように頬を膨らませていた一斉の表情が脳裏に浮かび上がる。 唐突に一斉の頭に狛犬の耳が付いているところを想像して七於はブッ!と口の中の米粒を吹き出した。 いや、違う、可愛いなんて思ってない。だって人間に狛犬の耳なんか付いてたらおかしいじゃないか。 そう思いつつ、緩み始める口元を誤魔化すように必死に咀嚼し飲み込んでから机に飛ばした米粒をいそいそと回収する。 「なんだよ野竹咽せたりなんかして、がっつきすぎなんじゃねえのか」 先行くぞー、と別の机に座っていた仲間に笑われながら肩を叩かれて「うるせっ」と言いながら七於も急いで席を立った。 俺の想い人は、強くて逞しくて天下無敵の荒鷲だ。 七於は自分に言い聞かせるように心の中で呟く。けれど同じぐらい可愛くて愛おしいのもまた事実なのだ。 連合軍にあだ名を付けられて、例えそれが原因で大空の中、狙われ追いかけ回されるような羽目になっても必ず帰ってきてくれると七於は信じている。 一度のみならず一斉は何度だって危機を乗り越えて七於の元に帰ってきてくれた。 だから七於はただ待ち続けるのだ。幾度も空に向けて一斉の名前を呼び続けて、帰ってくる場所を守り続けるのだ。 「……それが、今の俺に出来る最良だ」 整備場に向かって小走りで駆けながら七於は小さく頷き声に出して言う。 今出来る全力を自分たちはするだけだ。 その全力の先に、きっと日本の勝利が待ち受けているのだから。 整備場へ駆け行く七於の背中を照らす陽射しは、今日も全てを焼き尽くさんとばかりにギラギラと残酷なまでに輝いている。
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