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「一斉、また来たのか。搭乗の後はゆっくり休めと言っただろ」 七於は額に浮かべた汗を肩で拭いながら、整備の邪魔にならない場所へと座った一斉に声をかけた。 一斉から湿布を貰って早数ヶ月。気がつけば七於と一斉は古くからの友人のような、気兼ねなく何でも言い合える仲になっていた。 七於にとって友人だと胸を張って周囲に言える程、こんなにも搭乗員と親しくなることが無かったこともあり、口うるさいぐらいに一斉の体調を気遣ってしまう。 七於たち地上要員とは異なり、搭乗員たちは文字通り戦闘機に登場し高度数千メートルの世界で、命を掛けて連合軍と戦っている。 もちろん、内地の空技廠にいた頃に理論や実際の搭乗経験談は山のように学んできた。だからこそ遥か彼方の上空はその澄み渡った美しい蒼とは裏腹に、希薄な空気と重すぎる圧力と凍えるような気温が支配する厳しい世界だと知っている。それ故、七於の経験したことのないような過酷な環境で、三半規管を滅茶苦茶にするような運動性能を持った零戦を乗りこなす一斉の身を案じずにはいられないのだ。 「うん、でもさ……空にいる間は一人だし……」 疲労からかいつもより幾分か幼いような彼の物言いが少し可愛らしく思えてつい整備の手を止めてしまった。 「空はさみしいか?」 工具箱へと工具をしまった七於は、一斉の隣にそっと腰かけて問う。そんなこと聞かなくたって想像するだに分かる。 どこまでも果たしなく広がる青、碧、蒼。すべての「あお」に埋め尽くされた世界で、単座機に乗る搭乗員は一人きりだ。日本はまだ通信機の質が悪い。基地から離れれば離れるほど粗くなる通信音声にどれほど心細さを感じるのだろうか。 「……空は好きだ。航空機も、飛ぶことも。限りなく空気が澄んでいて、地上で見るよりずっと青くて深い色はそれはとても綺麗で……」 少し遠い目をして空を見上げた一斉の横顔を見つめる。 その切ない表情は、戦闘機に乗れど決して空を舞うことのない七於を置き去りにする。敵うはずもない大空という自然にすら嫉妬を覚えるくらいの悲しくも美しい顔だった。 「でもな……」 七於の気持ちなど知らない一斉は空を見つめたまま続ける。 「お前のいない空は、やっぱりさみしいなぁ……」 なんだそれは、と。堪らなくなることを言うな、と。 湧き上がる言葉はいくつもあった。その全てをすっ飛ばして七於は一斉を抱きしめる。太陽が照りつける昼過ぎ、暑いに違いない、きつく回した腕が苦しいかもしれない、汗に濡れたシャツが気持ち悪いだろうと頭の片隅で妙に冷静な自分の声が聞こえる。けれど。それでも抱きしめた身体を離せなかった。自分が抱きしめておかないと、どこかに行ってしまうと思ったのだ。一斉のしている正絹の真白いマフラーが優しく七於の頬を撫でる。 「なっ、七於……?」 焦ったような声と共に身動いだ一斉を更にキツく腕の中に閉じ込める。 「どうしたんだよ、おい……!」 どこか心配そうな空気を含んだ声すら、大切にそっと守りたいという気持ちと乱暴に独り占めしたいという相反する気持ちがぶつかり合い何も言えなくなる。 「……俺はいつまでも地上でお前のことを待つから」 決意にしては弱々しく、誓いにしては独占欲に塗れた声音がぽつりと溢れた。 「七於……」 もがくのをやめた一斉が静かに七於の名前を呼ぶ。 「俺は空には行けない。どんなに望んでも今からじゃお前の隣には行けない。でも……だからこそ、いつまでも俺はお前のことを待つよ。どこにいても、お前が地上に帰ってこれるように空を見上げて、一斉、とお前の名を呼び待っている」 七於の真剣な思いを聞いて一息後、一斉は七於の首筋に頬を寄せた。それはまるで愛玩動物が甘えるような、子犬が母犬に身を委ねるような邪気のない仕草だった。 「……うん。待っててくれ。お前がどこにいても、俺の名を呼んでくれるなら、翼が折れても、エンジンが止まっても、手足がなくなっても俺は必ずお前のもとに帰るから」 緩んだ七於の拘束から腕だけ抜き出し、ゆっくりと抱きしめ返した一斉の声は僅かに湿っていた。互いの存在を確かめるように抱きしめた腕を、七於と一斉はいつまでも解かなかった。それがかけがえのないものだと、声に出さない思いが固く二人を結びつけていた。
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