6

1/1
前へ
/25ページ
次へ

6

「……七於だろ?」 ざり、と床の砂が擦れた音で寝台の上で俯き座っていた一斉が顔を上げた。 真っ白な包帯が顔の上半分を覆った痛々しい姿を見て、七於は胸が詰まって声を出せなかった。黙ったままふらふらと寝台に近づき、首を傾げた一斉の頬をそっと指先でなぞる。 「七於」 確信したような力強い声がまっすぐに七於を捉える。 「ん、うん……」 喉の奥に張り付いた声がくぐもった音となる。 「馬鹿、なんて声出してんだよ」 ははっ、と笑った一斉の腕にそっと触れる。 いつもと変わらないしっかりとした筋肉の張りで、生きている。と安堵のあまり泣き崩れそうになった。そうして一斉が生きていることを示す肌の温もりに、心の内から愛おしさが溢れ出る。 生きている。一斉は、ちゃんと生きている。 約束した通り、生きて七於のもとへと帰って来たのだ。 泣くまいと強く噛み締めた唇をそっと緩めて細く長い吐息を漏らした。その些細な空気の震えを察した一斉は、大丈夫だ、と言うように反対の手で七於の手をそっと叩く。 目元を覆った包帯の痛々しさと、一斉が生きていたことへの安堵で忘れかけていたが、ふと手のひらに巻かれた包帯に気がつき、寝台の上に座る一斉の姿へ視線を走らせる。目以外にも、この手のひらのように怪我をしているのではないだろうか。 自分の手の届かない遠い彼方の空で一人怪我をして帰ってきた一斉を、もうどこにも行かせたくなくて独占欲にも似たような庇護欲が湧き上がり、薄布団を剥ぎ生成色の入院着の上から指先を、手のひらを、腕を、肩を優しく撫でる。 「な、七於……?」 困惑したような一斉の声は七於の手が首筋から胸板をなぞり引き締まった腹筋を通りすぎて太ももに触れた瞬間に、色を付けた。 「や、七於、どうしたんだよ……!」 「暴れるなよ、傷がないか確かめたいんだ」 「そっ、んなとこに、傷なんかねえ!」 内腿をさする七於の手から逃れるように一斉は身動いだ。 一瞬チラついた一斉の艶めいた響きは、七於の腰の奥に揺らめく炎を灯す。 秘められた箇所と男の証に触れたい、そう不意に湧き上がった欲望を抑えつけて、七於は一斉の腹部に甘える子供のように抱きついた。 「七於……!」 「心配だったんだ」 七於の零した小さく低い声を一斉は聞き逃さなかった。 「尾翼が破損し、風防の中が真っ赤になったのが、朝お前が乗って行った機だと気付いた時、俺は空を飛べない自分が歯痒くて、お前の無事だけしか考えられなくて、心臓が潰れるかと思った」 腹に顔を押し当てくぐもった声で告げる七於の言葉を一斉は黙って聞いた。 「零戦の脚が出なけりゃ地面を滑って下手したら灌木に突っ込んで爆発したりするかもしれない。ぐちゃぐちゃに割れた風防の中で目を閉じたお前を見た時にも心臓が潰れるかと思った。顔も、手も、身体も機体の中も真っ赤で、お前が……お前が、死んでしまったら、俺は……」 海の気配を纏った七於の声に、一斉は優しくしがみついた肩を撫でた。数回緩やかに肩を撫でた後に、髪に触れた指先は愛おしく思う気持ちに溢れていた。土埃や汗や機械油で汚れていることなど厭わないように、限りなく慈しみに満ちた美しい手付きで一斉は七於の髪を撫でる。 「……心配かけて、すまなかった」 七於の髪を撫でる手を止めずに静かに一斉は告げる。 「……風防が割れて」 淡々とした頭上の声音に七於は顔を上げた。髪を撫でていた一斉の手は七於の肩をなぞりパタリ、と寝台の上に落ちる。 「割れたガラスが目に刺さったんだと思う。軍医にはそう言われた。一瞬の出来事で、何が起きたのかわからなかったけど、目が熱くて涙なのか血なのかわからないが熱い液体が噴き出したのを感じて……」 負ったばかりの痛みと恐怖を思い出した一斉の身体が細かく震えだす。 「一斉……」 今度は七於が一斉の名を呼ぶ番だった。身体を起こして寝台に寄り添い一斉の肩へ腕を回して僅かに自分の方へと引き寄せる。包帯の巻かれた手のひらを優しく撫でて、身を屈め髪に口付ける。 僅かに震えながらも、一斉は七於に身体を預けて話を続けた。 「……視界が赤くなって、どんどん見えなくなってった。何度も手で拭ったんだが、ますます酷くなって、ああ、俺死ぬんだろうなって思った。でも……」 七於に握られた手をグッと握り返し一斉は言った。 「お前が待っていると言ったから、だから俺はお前のもとに帰らなきゃならないって思い出して、もう目なんか全然見えてなかったし、尾翼も追撃されたけど、それでも帰るんだって、お前のことだけ考えて操縦した」 静かな声で告げられた果てしない思いの熱量に七於は無意識に呼吸を止める。 「不思議と飛ぶ方角がわかって、陸地が見えた時、お前が呼ぶ声が聞こえたんだ。……聞こえるわけなんかないのに、だって、エンジンもプロペラも限界でガタガタ震えててさ、騒々しいに決まってるのに、それでも七於が俺を呼ぶ声が聞こえたんだ」 鳥肌が立った。 一斉の言うとおり、機体を見つけた時の地上の自分の叫びなど零戦の機体の中にいて聞こえるはずがない。それでも確かに自分の声は一斉に届いたのだと、七於もまた確信していた。 「脚を出して着陸したことは覚えてない。無意識だったんだと思う。でもお前が俺を呼ぶ声は暗い思考の中でいつまでも聞こえていた」 「一斉……」 「……約束したから。お前が誓いを俺にくれたから生きて帰ってこれた」 ありがとう、と告げた小さな彼の声に七於はもう涙が抑えられなかった。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加