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一斉が退院してから五日が経った。 幸いなことに一斉は酷く怪我したにも関わらず両目とも視力を失わずに済んだが、目が命である搭乗員として戦闘機を降りなければならないほど視力は低下してしまった。 怪我をした直後だということだけでなく、視力の低下で当然一斉に搭乗が割り振られることはなかった。その間一斉はと言うと地上要員に混ざり畑仕事に精を出したり、雑用を進んで行ったり、身体を鍛えたりして時間を過ごしていた。 これが搭乗員でなく自分たちのような整備員や地上要員だったら「完治したのだから退院したんだろう、ならば無駄飯食らわず即日働け!」と上官に言われているに違いないが、司令部としても一斉の扱いに少し困っていたのかもしれない。 夕飯を終えた一斉が七於を散歩に誘ったのはそんな時だった。 「司令部は俺にどうしろってんだ!」 砂浜に打ち上がった流木の欠片を海の方へと蹴飛ばし、一斉は叫んだ。 「お、おい、一斉……!」 七於は慌てて周りを見回す。こんなところを見られたら罰則ものだ。 「……大丈夫だ。ここ最近毎晩この時間に来てるが誰も来やしない」 一斉にしては珍しく不機嫌さを隠さないままドスンと砂の上に腰を下ろした。 七於もその隣にゆっくりと腰を下ろす。 「……俺は別に操縦が上手いわけでもない、特別機銃の腕があるわけでもない。いつか赤坂が言ったように戦績だって甲を取ったこともない」 夜に溶けた黒い海を見つめながら一斉が静かに胸の内を吐き出す。 月のない夜だった。 ざざ……と寄せて返す波音が無ければ、海との境がわからなくなりこのまま闇に飲まれてしまいそうなくらいだ。 「だからこそ、俺から航空機がなくなったら、俺がここにいる意味がなくなっちまうんだ。俺には航空機しかないのに。俺はそれしかできないのに……」 空に行けない七於にはわからない、決して理解することができない告白だった。誰よりも最前線で、命を賭しても祖国を守ると決意して空へ行く男の苦悩を、理解した気になることすら烏滸がましいと感じた。 「……今じゃ、夜空に輝く星もろくに見えちゃいねえ。ほんとなら、あそこにこいぬ座があるはずなのに、今の俺には一等星すらギリギリ見えるかどうかだ。目が命の航空機乗りが、笑わせるよな、こんな体たらく。……見えないんだよ……これじゃあ、空を飛べないっ!戦えないんだ……!」 この五日間で目の当たりにした現実が重しとなり一斉を苦しめている。 俺ではダメか、お前の理由にはなれないのか。空で戦うだけが、一斉の生きる意味ではないと七於は思っている。この戦争だっていつか終わるはずだ。ならばその時、それからのことを考え願ってはいけないのだろうか。 けれど更に追い詰めてしまうかもしれない言葉を七於は出すことが出来なかった。代わりに無言で一斉の肩を小さく叩いた。 「……七於」 すまん。と呟いた一斉は七於の肩に額を押し当てた。小刻みに震える身体が、かわいそうで、愛おしくて七於は抱きしめ返したい衝動を必死に堪えた。 今、自分が甘やかしてしまえば一斉は多分泣いてしまうから。そしてそれを彼はまた自らの弱さだと責めるのだろう。震える一斉に悟られぬよう七於は奥歯をぐっと噛み締めた。手のひらに砂つぶが食い込む。俺だって、お前に何もしてやれてねえよ……。 どれくらいの時間そうしていたのだろう。ふ、と一斉が身体を離した。一斉と触れていた身体の左側にすうっと夜風が流れていく。 「……誰か来る」 「え?」 一斉の呟きに耳を澄ます。けれど聞こえるのは静かな波音だけだ。 「こっち」 「おい、一斉ってば」 一斉に手を掴まれ慌てて立ち上がる。尻に付いた砂を払う間も無く砂浜の奥に広がる灌木の陰に連れ込まれた。 「何も聞こえねえよ」 一斉に言うと、「来る」と確信めいた鋭い視線で波打ち際を見つめる。普段の表情からは伺えぬ確かな戦う男の顔を初めて見た七於は一斉の顔から目を離せなかった。 空にいる時の顔だ、と七於は思った。俺が見たくて、見ることができないはずの、誰も知らない一斉。 七於が惚けたように一斉の顔を見つめていると不意に砂を踏みしめる音が聞こえた。 ハッと顔を上げると、見知らぬ隊員が二人、先ほどまで七於と一斉がいた場所の付近を歩いていた。目を凝らすと一人は特警隊の腕章を付けている。 まだ消灯時間ではないし、今ここにいることが何か規則に触れているわけではないが、特警隊は皆苦手だ。難癖付けて罰則を与えるのが仕事みたいなものだ、という仲間もいる。 暗闇で顔は見えないが、特警隊ではない隊員が一人いるのだから恐らく罰則……いや、敢えてこの時間の人気のない場所でとなると言いがかりによる私刑か。 知らず息を殺し、じっと様子を伺ったが一向に罰則や私刑が始まる気配はなかった。 ひそひそと小さな声で会話しているからか、話している内容までは聞こえないが腕章を付けていない男が特警隊の男の腕を掴み何かを熱心に話しているようだ。 ふと横で同じように息を殺している一斉を見るとなぜか耳が赤く染まっている。熱でもあるのかと手を伸ばしたその瞬間、「あっ!」という声にびくりと肩を跳ね上げさせた。バレたか?と様子を伺うが、二人がこちらに気付いた様子はない、どころか……。 腕章を付けていない男が、特警隊の男を腕の中に閉じ込めている。一瞬、取っ組み合いが始まるのかとこの隙に場を離れようと身構えたが、取っ組み合いとは程遠い秘め事が始まり七於は目を見開いた。 特警隊の男の服を抱きしめながら手荒く脱がし、腕章をしていない男が激しく口付ける。やがて二人は砂の上に倒れ込み本能のままに身体を重ねた。 時折波音に混ざり特警隊の男の甘い嬌声がかすかに響いた。知識として何をしているのかぐらいわかってはいるものの、突然始まった他人のその熱に炙られたように、七於はじんわりと下腹部に集まる温度に困惑した。不思議と彼らの必死な営みを見ても嫌悪感はなく、自分と一斉が交わったとしたらあんな感じなのだろうなと頭の中のどこか冷静な部分が声をあげる。 そっと横目で隣の一斉を見ると、顔を真っ赤にして目をぎゅっと閉じそして両手で耳を塞いでいた。 そんなにもショックが大きかったのだろうか。そう言えば一斉は他の隊員たちと違いあまり下世話な話題に参加していないことに今更ながら気が付いた。 神に仕える家の出だし、自分より幾分か歳下だから刺激が強すぎたのかもしれない。少し微笑ましく思いながらゆっくりと一斉の方へ顔を向ける。 顔も知らない他人の情事を盗み見るより、七於に見られているとはつゆ知らず、硬く目を瞑ったままの一斉の顔を見つめる方が自分にとってはよほど密やかなものを覗き見てしまったような背徳的な悦びがあった。 瞼に大きく走った傷痕が痛々しく、七於の脳裏に真っ赤な景色が蘇る。 生きていてくれて良かった。 ただひたすらその思いだけが胸を満たして、いつまでもいつまでも愛おしいその顔を見つめていた。 それからしばらくしてから浜辺の二人が足早に歩き去る音が聞こえ、一斉がゆっくりと目を開き両耳から手を離した。 「……よう」 ずっと息を殺していたからだろうか、少し掠れた声で一斉に言うと、「ん……」と目線を逸らしたままの姿で返事があった。 「なんだよ、まだ照れてるのか?まあ、お前にはまだ早かったかもしれないけど、別に遠目だし大して声も音も聞こえなかったんだからそんなに恥ずかしがるなよ」 宿舎に戻るきっかけにと七於があえて軽口を叩くと一斉は七於から目を逸らしたままで「違う」と言った。 「何が違うんだよ、そんなに顔真っ赤にして耳まで塞いで。声なんか聞こえなかったよ、安心しろ」 「俺には聞こえた」 「はあ?」 きっぱりとした口調で、けれどどこか水気を含んだ声で一斉が言う。 「はっきり、喋ってる声が聞こえた。……じ、情事の音も、特警隊の奴の声も、相手の声もっ……」 「そんなこと、あるわけ……」 「嘘じゃないっ!」 「一斉……」 未だに赤らんでいる顔を上げ疑う七於に一斉が声を荒げた。 「じゃなかったら、耳なんか塞ぐわけねえだろ!」 こいつはそんなに耳が良かっただろうか。これまでの一斉と過ごしてきた日々を思い返す。特別耳が良いという印象は受けたことがない。 「……急に、聞こえるようになったんだ。思えば、目が悪くなってから、なんか耳が良くなった気がする」 俺、どうしちまったんだろう……と力無く呟いた一斉の肩を優しく掴む。瞬間びくりと大きく肩を跳ね上げ七於を見たその瞳に、大きく水を張り、暗闇でも煌めいた瞳に、七於は体温が上がるのを感じた。 「……離せ」 一斉が震える声で言う。 「嫌だ」 七於も短く答えた。離すもんか、そんなに潤んだ目をして、一人になんかするもんか。 「一斉、大丈夫だ。お前は変わってないよ」 ぐっと肩を引き寄せ、熱い身体を優しく抱きしめる。 「やっ、」 瞬間腕を突っぱねられ七於は尻餅をついた。「お前なぁ」と言いかけた口は、一斉の顔を見て間抜けに開いたままになる。 先ほどとは違い熱に浮かされたように潤んだ瞳が、小さく開いた唇から溢れる浅く速い吐息が、七於の視線を釘付けにする。 凄絶に色っぽいとはきっとこのことを言うのだと七於は思った。生娘のように恥じらいを纏いながら、相手を誘うかのように濡れた瞳が、染まった頬が、星明かりの僅かな光に照らされている。 ごくり、と無意識に喉が鳴った。男らしさの象徴である喉仏が上下に動く様を見た一斉が素早く立ち上がり踵を返した。眦から頬へ流れる煌めく水滴を見たのは自分の錯覚だろうか。 その場に座り込んだまま、七於は声をかけることも一斉を追いかけることもできなかった。就寝時間を知らせる喇叭が聞こえるまで、呆然としてその場から動けなかった。
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