カストラートの誕生

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(酷えブスだ)  一目見るなり、ジャバはそう思った。 (チッ。酒が不味くならぁ)  一仕事終えた疲れを癒そうと、飯の旨そうな酒場に入った。  瀟洒な外観のその店は清潔で、広くはないまでも他人の吐き出す煙に悩まされる心配はなさそうだった。 (これなら女を買いに行けば良かった)  料理人が心を込めずに作ったとしか思えない代物だが、遊郭に行けば、一応飯にもありつける。  料理の味を誤魔化してくれる強い酒も飲める。  それに何より、旅の漂泊感を癒すの股に、人生で染み付いてしまった澱を置いていくことができる。  だが、たとえ一晩であっても、ああいう女と過ごしていると、化粧や香のにおいがついてしまう。  若い頃は性欲に任せて質の悪い娼婦を買い漁った。  ジャバはそこにそれなりの楽しさを見出すことができたし、女をうまく悦ばせてやれたときは、男として人生のステージが上がったような、そんな錯覚に酔うこともできた。  だが、親方の下を離れ、独立した調香師となってからは、そういう場所に足を踏み入れることはない。  仕事でそれなりに認められ、高級娼婦を買えるだけの経済的余裕も手にしていたが、かえって足が遠のいていた。 (まったく、なんで俺はこんな鼻に生まれついちまったんだ?)  ジャバは心の中で自分に毒突いた。  調香師は何千種類もの香りを嗅ぎ分ける、敏感な嗅覚が必要だ。  後天的な修行で手に入れることができるものではない。生まれ持った天性のものだ。  遊んだぐらいで鈍るようであれば、そもそも調香師失格と、責任を感じずにいられた若い頃は多少の羽目も外したが、独り立ちした今となっては、服に煙草のにおいが付きそうな場所すら避けるようになった。  高級であっても娼婦を抱けば、2、3日は香りが映る。  嗅覚が研ぎ澄まされているだけに、わずかな残り香も気になった。 (女が好むものは、そもそも俺がこさえたものだってのに)  現に今日も、この街の一等高級な娼館に香を卸してきた。  女に好まれれば好まれるほど、自分は女から遠ざかっている。  一体これは何の因果かと、持って生まれた才能を憎んだ。  せめて旨い飯と品のいい酒と、擦れていない給仕女でも見て健全に目を楽しませようと思ったのだが…。  店にいた流しの吟遊詩人は、巨漢の醜女だった。  体に比して、リュートがやけに小さく見える。歳もジャバより上だろう。 (いくら歌がうまくたってな)  見た目が問題ではない。そんなことはわかっている。  悪いのは自分だ。でもどうしても、下賤な考えを消すことができない。  いい女だったらと思うのは、男の本能だろう。  ジャバは獣を鞭打つように、グイと酒を喉にぶつけた。  だがジャバの下卑た審美的感覚は、吟遊詩人が歌い出すと同時にどこかにいってしまった。 (ほう、こいつは……)  他の客は、何食わぬ顔で食事を続けている。まるでまたいつもの吟遊詩人の日銭稼ぎが始まった、とでも言わんばかりに。  関心を抱いたのは、ジャバだけらしかった。だが、それは彼の芸術的関心によるものではない。  調香師などという仕事をしてはいるが、ジャバの感覚は大衆酒場で飲んでいる港湾労働者や、ロクな装備もなしに前線に駆り出される農民上がりの兵士に近い。  鼻が優れているから調香師になっただけで、芸術に関心があったわけではない。 (こいつは、男か)  巨漢の体に、ドレープのゆったりした裾の長いワンピース。  伸ばした髪の毛、ぬめっとした白い肌。  誰が見ても、性別は女だと思うだろう。  いや、歌声を聞いたあとでも、10人いれば10人とも女の声だと思う。  耳の聡い者の中には、わずかに違和感を感じ取る者もいるかもしれない。  この声には、嬌態というものが抜けている。  だが、それはこの歌い手が男の興味を惹かない容姿をしているせいであり、歳をとっているせいだと解釈するはずだ。 (カストラートか)  芸術に興味はないが、それを見分ける力がジャバにはある。  好みはあっても解さない半可通とは違う。  調香師として生きてきた年月は、専門外のことでもそれなりの知識を彼に与えていた。  カストラートとは、去勢した男性ソプラノのことだ。  そうすることによって声変わりを抑え、成人してからも高音域が出せるようにする。  その歌声は男には決して出せない繊細さを持ち、女のものにしてはありえない強さとたくましさを持つ。  どんなに激しく歌っても、そこには艶かしさがあり、どんなに優しく歌っても、人生を生き抜く強さを感じさせる。  それでいて、捉えどころがない。  獅子の咆哮のようだと思えば、コマドリのさえずりにも聞こえる。  夏の午後にそよぐ風の気持ちよさを感じたかと思えば、冬の凍てつく吹雪の中にいるようにも思われる。  聞けば聞くほど深みを増し、ますますはまっていく。  男性機能を失った引き換えに、底なし沼に人を引きずりこむかのような魅力を得た歌手。  それがカストラートだった。 (こりゃあ、珍しいものを見たな)  去勢すれば皆このようになれるわけではない。  カストラートになる以前に、卓越した歌唱力と表現力が必要になる。  だから滅多に見ることはなかったし、ジャバも実物を見たのは初めてだ。 (それに)  興味を惹かれた理由がもう一つあった。 (確か、随分と前に教会はカストラートを禁止したはず)  人道的見地から、というのが第一の理由だ。  カストラートはどこに行っても重宝がられる。  有力貴族のお抱えともなれば、地方の領主にもまさる収入を得ることができる。  だから自分の子供をカストラートにしようと、無理矢理去勢させる親もいたぐらいだ。  だが、カストラートになるには類い稀なる天分が必要だ。手術をしたはいいが、歌手にも男にもなれない男子を生み出しただけということもある。  また、不衛生な状態で手術して、命を落としてしまうケースも多い。  表向きはそういうことになっている。  しかし本当の理由は、あまりにもカストラートの虜になってしまう者が多いからだ、と聞いたことがある。  特に歌い手が美形の場合には。 (まっ、こいつは心配ないか)  ジャバはその吟遊詩人の顔を見て苦笑した。 (まあ、痩せれば案外若い頃はいい男だったかもしれんな。だが、今となっちゃあ、あいつに引き寄せられるのは特殊な趣味の野郎だけだぜ)  元来、ジャバは男色には一欠片の興味も持ち合わせていない。  どんなに美しい男であっても、醜女と寝る方がマシだと思っている。  彼のカストラートに対する関心は、純粋に芸術的なものだった。  店にはジャバの他に何人も客がいたが、皆酒と料理にしか関心がないようだった。 (そんなものだな)  どんなに優れた歌声を持っていたとしても、それだけで人を惹きつけるのは難しい。  普通の人間は美しい容姿に惹きつけられ、その後、そのうちの何パーセントかが、本当の芸術の価値に気づく。 (芸術とは結局、わかるものにしかわからないものだ)  ジャバが作った香にしても、行為の最中に気にしている男など皆無だろう。  だがふとした瞬間にその香りを思い出し、また女の元に行く。  美など畢竟、欲の奴隷に過ぎない。  いつのまにか歌は終わり、ピアノの演奏に変わっていた。  奏者はロマンスグレーの中年の男で、ジャバの興味は早々に料理に移っていった。 (いいもんは見せてもらった。飯を食い終わったら、早めに宿に戻るか)  明日も早く発ち、また次の街に香料を卸しにいかねばならない。  香の原料となる植物も、山の奥深くまで踏み入っていかなくては入手できないものもある。  調香師の仕事は、旅から旅の連続だ。  余った酒を飲み干し、店を出ようと思ったそのとき、向かい側に大きな影を感じた。 (おっと、いつの間に)  目を上げれば、巨漢の歌手が向かいの席に座っていた。  人一倍、感覚の優れたジャバが気づかないとは珍しい。 「あんたか。いや、よかったよ。いい歌を聞かせてもらった」  席を立とうとしていた彼は、もう一度椅子に腰掛けなおした。 「お褒めに預かり光栄です」  歌っているときと寸分違わぬ声で、巨漢の吟遊詩人は言った。  脂肪のたっぷりついた頬を緩ませる。 「こう言っちゃなんだけど」  ジャバは遠回しにほのめかすとか、それとなく匂わせるといったことができない。  だから、一人でもできる調香師の道を選んだのだ。 「珍しいものを見たよ」  気を悪くさせるかな、と思わないでもなかったが、相手の頬はますます弛んだ。 「ええ。私と同じような人間も、めっきり少なくなりました。もはや他にはいないかもしれません」  隠さないでいいとなると、話は早い。 「あんたカストラートだろ。こんな場末の酒場でお目にかかるとは思わなかったが」 「芸術が花よ蝶よともてはやされたのは、過去の話なのです。人はまず何より、衣食住が満たされることを望むものです。特に戦乱の後には」  この街やジャバが普段拠点にしている街は、アーノルド連合侯国の支配下にある。  それが最近まで、隣国スタローナ王国との戦争に明け暮れていた。  事の発端は、侯国の諸侯の一人、ネッガー家の血を引くスタローナ王が、侯国の一部シュワルツ領の領有権を主張したためである。  血を引くといっても、もう5代も前のことで、今のスタローナ王とは何の関係もないといっていいが、シュワルツ領から金が発掘されたことによって、突然権利を主張しはじめたのだ。  数年の小競り合いののち、本格的な戦争に発展した。  海の民シルヴェスの助けを借りて、ようやく王国の脅威を退けたのは、まだ半年前のことだ。  ジャバが香を娼館に卸しているのも、戦争の結果、身寄りを亡くした若い女、まだ少女といっていい女が増えたからだ。 「それと性欲が満たされることを」  と、吟遊詩人はジャバが脳裏に一瞬浮かんでかき消した台詞を言った。  己の仕事に似合わぬ粗野な性質のジャバであるが、さすがにカストラート相手にこれはまずいだろうと思ったのだが。 「カストラートでも結婚している人もいるのです。もちろん性欲もあります。一般的な男性が感じるものとは違うかもしれませんけど。それよりは女性が感じるものと似通っています。子供はできませんがね」 (驚いたな。聞きにくいことを自分から喋ってくれる。おそらくこの手のことを聞かれることがよくあるのだろう) 「じゃあ、あんたは今、金に困っているわけだ」  ジャバはデリケートな話題から離れようとした。  相手の方から言われると、かえって聞きたくなくなるというのもある。 「いいえ。金には困っていません。私がそのようなものに困ることはありません。ただ、飢えているといえば飢えています。ですからときどき、こういったところでも歌い、飢えを満たしてくれる人を探しているのです」 「おっと、俺はそんなんじゃないぜ」  腰を浮かしかけたジャバを制して、詩人は言った。 「いえ、飢えというのはそういった意味ではありません。私のような吟遊詩人は長い旅をしております。旅の途中にいろんな話を聞きますし、いろんな体験をします。その間に、話すべきことが溜まってくるのです。昔のように毎晩貴族の屋敷で歌っていたときなら、それを物語にして歌うことができます。でも今では歌う機会がありません。そこで、話を聞いてくれる人を見つけて、話をしているのです」  ジャバはまだ警戒を解かなかった。  話を聞く場所がベッドの上ということもありうる。  この詩人は気配も感じさせずに向かいの席に座っていたのだ。  強引なことをされたら逃げられないかもしれない。 「そんなに警戒なさらずともよろしい。私は見た目よりずっと歳をとっております。性欲など、とうの昔に枯れ果てています。ここで一つか二つ、話をしたら、また旅に出ましょう。吟遊詩人というのは、溜まった話を誰かに聞いてもらう必要がありますが、話が尽きればそのままではいられないのです。今度は話を探しに行かねばなりません。根っからの芸術家なのです。芸術とは旅を必要とするものなのです」  ジャバは腰から力を抜いた。 「俺は話を聞いてくれそうだったかい?」 「ええ、それはとても。芸術がわかる方はそう多くはありません。あなたは数少ないそういった人です。あなた自身は芸術に興味をお持ちでないにしても」  ジャバは背筋にゾクッとしたものを感じた。  見事に言い当てられている。 「ですが、あなたも明日の仕事がおありだ。一つこういこうじゃありませんか。もう一杯、酒を注文する。その酒がなくなるまで私の話を聞いてくれる。酒はあなたの好きなもので構いません。警戒なさっておいでであれば、弱いものをどうぞ。もちろん私の奢りです」  ジャバは店のウェイターを呼んだ。 「あんたは?」 「同じものを」  葡萄酒を二杯注文する。  怪しげな男だな、とは思ったが、カストラートと会う機会など、この先もう二度とないかもしれない。 (まだ夜も早い。一杯ぐらいならいいだろう)  すぐに二人分の酒が運ばれてきた。 「それでは、お話いたしましょう。カストラートであり、吟遊詩人である私が、旅の途中に目にしたものを」  ジャバは軽くグラスに口をつけた。  ある若い女の話です。  女は、ありきたりな農家の娘です。  オリーブだかブドウだかを栽培していたと思いましたが、詳しいことは忘れました。  ジャガイモだったかもしれません。  家で食べる分だけのジャガイモを、痩せた土地で作っていただけだったかもしれません。  いずれにせよ、そんなことはどちらだっていいのです。  ジャガイモだろうと、ニンジンだろうと、粉挽きの娘だろうと、灯台守の娘であろうと、若い女にとって一番重要なのは、顔が美しいかどうかなのですから。  星読みの娘だったかもしれません。  いや、墓穴掘りだったかな?  いずれにせよ、その娘は村では評判の器量よしでした。  しかし、だからといって、特別綺麗だったかというと、そうではありません。  あくまで、その村では、というだけです。それだけでおとぎ話のような人生が約束されているようなものではありません。  せいぜいが若い頃に村だか街だか、全てが顔見知りばかりの狭い範囲で評判になるだけです。  二十歳前にはお嫁にもらわれていき、そうですね、顔はそこそこだけど誠実で健康である、平凡な青年と結婚するのが関の山でしょうか。  そうして三人か四人か、五人か六人か。  子供を産みます。  最後の子供を産む頃には、もうとっくにうら若き乙女だった頃の面影など残ってはおりません。  人目を引いたその容貌も、見事にパッとしない良人に見合ったものになっています。  体はほぼ二倍になるといっていいでしょうかね。  ええ、その方がいいのですよ。  いくら良人に愛されるとはいっても、肌が水を弾いているうちだけの話。  年増の色情狂いほど、みっともないものはありませんから。  ええ、男も女もです。  自然はいいようにできているのですよ。  ちゃあんと、歳をとれば異性の目を引き付けなく変化するようにできているのです。  ですが、その娘は自分の前に横たわっている平凡で暗い未来に我慢ができませんでした。  狭い村の中にいれば、他人の賞賛と恋慕を得ることができます。  誰もが自分の容姿を褒めてくれます。  君は世界で一番だ、なんて嘘か真かいいよってくるものもいます。  妻子のある年配の男に取引きを持ちかけられたこともあります。  そこの領主の目に留まるのではないかと噂されたこともあります。  そういったことが積み重なると、本人もだんだんまっとうでなくなってくるのです。  元々そういう素質があったわけではありませんが、周りの環境が人を変えるのです。  せめて似たような器量の娘が他にもいればよかったのですが。 「ああ、わかるぜ」  ジャバは相槌のつもりで話に割って入った。 「そういう娼婦を何人も見てきた」  むしろ、そういう娼婦ばかり好んで相手をしていた時期もある。  上級の娼婦を相手にするよりも、女の焦りだとか価値を認められたがっている感じだとかが、手に取るようにわかって興奮が高まったものだ。  好んで雌のカブトムシを採集する感覚、とジャバはそう言い表わしていた。 「自分にたいした天分がないことに気づいた頃には抜け出せなくなっている。仮にトップにいられても、すぐに衰えていくしな。もっと若くて綺麗な娘が入ってきて、客を取られるってこともしょっちゅうだしな」  ハハハハ、と乾いた笑いを上げようとして、途中で消した。  酒のグラスを持ち上げて一口すする。 「話の腰を折ってすまなかった。他愛もないただの冗談だ。続けてくれ」  吟遊詩人の憐れみと諦めを含んだ視線を感じ取ったのだ。  粗暴なものに馴染むタチだとはいっても、芸術を解さない奴だとは思われたくない。  ため息の一つでもつかれるかと思ったが、詩人は話が途切れる前と寸分違わぬ口調で再開した。  娘は自分を特別なものとして思い始めていました。  ですが、大きなお城のある街に出てやろうとか、そういうことは考えませんでした。  そこは農家の娘らしく、地に足がついていました。  自分の運命をある程度悟ってもいたのです。  きっとあと何年もしないうちに誰かのお嫁になり、一生をこの貧しい農村で暮らすのだろうと。  ただせめて婿になる男は、それなりの者を選ぼうと思っていました。  歳が適当だからといって、冴えない男のアクセサリーになることだけは、娘のプライドが許さないことでした。  そんなある日のことです。  娘が森で野草を摘んでいると、視線を感じました。  ハッとして顔を上げます。以前より、多くの男に言い寄られていましたから、その中の誰かにでも後をつけられでもしたのかと思ったのです。  ところがそこにいたのは、鹿でした。  大きな野生の雄の鹿が、娘をじっと見ていました。  鹿が人を襲うことは稀ですが、腹でも空かせているときはその常ではありません。  娘は自分が野草を手にしていることを心配しました。  そこで、野草の入った籠をそっとその場において、立ち去ろうとしたのです。  しかしそのとき、鹿が話しかけてきました。 「娘よ、怖がらなくともよろしい。私はお前に危害を加えたりはしない。そんなものも食べない」  鹿は、人間のように口を動かして、娘が理解できる言葉で喋りました。  不思議と、娘の方も、鹿に奇妙な親近感を感じました。  恐怖とか戸惑いとかいった感情はなく、鹿に対して不思議と親密さを感じたのです。  鹿は娘にこう言いました。 「普通、私はこんな人里に近いところまで下りてきたりしない。だが今は食べる物が減ってしまっている。それで人間が入ってくるようなところまで来ているのだ」  しかし、娘は不思議に思いました。  今年は鹿の食べる物が少ないという話は聞いたことがありません。  他の野生動物が食べ物を求めて、里に下りてきたという話もありませんでした。  そこで娘はこう言いました。 「でしたら、この野草を差し上げますわ。さっき摘んだばかりですの」  しかし、鹿は大きく首を左右に振りました。 「そんなものは食べないと言っただろう。だが、私はお前に協力してもらいたいのだ」  きっと家から野菜でも持ってきてほしいのだろうと、娘は思いました。  それか、鹿が届かないところにある木の実でも採ってくれと言われるのかもしれません。  ところが鹿の望みは意外なものでした。 「料理を作ってほしいのだ」  鹿は娘の前で身を屈めました。  娘は驚いて警戒しましたが、それは鹿が近くに来たことでもなく、人間の言葉で話しかけてきたことでもなく、その申し出の内容についてでした。  鹿に料理を作るというのはどういうことだろう? 「背中に乗りなさい。私の家に連れていく。材料も道具も揃っている」  娘は恐る恐る、鹿の背にまたがりました。  警戒よりも好奇心が勝ったのです。  それに不思議な出来事に内心嬉しくもありました。  なにしろ自分の退屈な運命にうんざりしていたのですから。  娘を背に乗せると、鹿は飛ぶようにかけていきました。  あっという間に、娘が踏み入ったことのない、森の深くまでいきます。  鹿の足は速く、耳元で風がゴウゴウと鳴りました。  目を開けていられなくなって顔を伏せました。  いったい、どこまで行くのでしょう。  なぜか、鹿の蹄が土を蹴る音が聞こえません。  おかしいと思って薄眼を開けて見ると、遥か下の方に海が見えました。  飛んでいるのです。鹿は翼もないのに、天を駆けていました。  やがて海が消え、白っぽいものに変わると、鹿は降下を始めました。  やがて地面に降り立つと、白く見えたものは砂だということがわかりました。  そこは辺り一面、砂だらけ。砂だけ、砂しかない大地でした。  木など一本もありません。荒涼とした砂漠でした。  そこに不釣り合いな、木造の家が一軒だけポツリと立っていました。 「さあ、ここが私の家だ」  鹿は枝分かれした角を器用に使って、ドアを開けて娘に中に入るように促しました。  中は人の住んでいる家と変わりありませんでした。  寝泊まりしているだけでほったらかしにしているような家ではなく、ちゃんと人の手によって世話をされているような、そんな家でした。  竃は綺麗でしたし、新しい薪も用意されています。  包丁は研いでありましたし、まな板は清潔です。  大きな水がめには、たっぷりと水も入っていました。  鍋も大小いろんな大きさのものがあります。  調味料も一通り揃っていました。  これなら一応、料理はできそうです。  でも、肝心の食材がどこを探してもありません。  家の周りは砂漠です。  これなら鹿が食べ物がないと言うのも納得ですが、家の中にまでなければ料理をすることはできません。 「で、どんなものをご所望かしら」  娘は鹿を振り返り言いました。 「この世に二度とない料理を」  鹿は言いました。 「あら、じゃあ砂のサンドウィッチはいかがかしら?それとも、風のパスタがお好みかしらね。時間がかかるのが嫌だったら、見えない聞こえない味もしない、噂話をグツグツ煮込んだ特製シチューでどうかしら?これなら私、いつも作っていますのよ。必要なのは耳と口だけ」  娘は冗談を言ったつもりでしたが、鹿はいたって真面目な調子で言いました。 「耳と口だけでなく、目も鼻も手も足も使ってほしい。角も余さず使ってくれ。私はお前の作ったものを見ることはない。聞くこともない。無論、味わうこともないだろう」 「どういうことですの?」 「3日後に、ここに男の人が来る。お前に作ってもらいたいのは、その人をもてなすための料理だ。私を使って作られた」  娘はまだ鹿の言っていることが理解できませんでした。 「食材は私だ。少々長生きしすぎた雄の鹿だ。私を余すところなく料理にして、三日間テーブルの上に並べっぱなしにしておいてほしい。3日後にとても美しい姿をした、透き通った若い男が来る。その人は酷く飢えているから、料理を全て食べるだろう。その男は私の元の主人だ。悪い魔女に呪いをかけられて、今は自分の肉体を失っている。彼はその美しい容姿を見初められ、魔女に求婚されたのだが、それを断った。だから怒った魔女は彼の肉体を奪ってしまった。普段は彼は見えざるものだが、満月の夜にだけ姿が見えるようになる。3日後が満月だ。彼はここにやってくる。彼を救う方法はたった一つだ。若く美しい処女が余さず料理した雄の鹿を、余さず食べること。そうすれば、彼は再び肉体を手にすることができる」  娘は戦慄を覚えました。  これから自分はこの雄の鹿を殺して料理をするというのでしょうか?  この鹿の言うことが本当でなかったら、なんとするのでしょう? 「そんなことしたら、あなたが死んでしまうわ」 「私は彼の肉体となって生きる。心配ない。より美しいものの一部となって生き続けるのだ。彼は私がなくては生命を得られない。今私を形作っているものが、今度は彼を生かすのだ」  それでも娘は躊躇していました。  鹿がかわいそうだったからではありません。  本当は、娘はこの話に興味津々でした。  魔女に見初められた美少年ですって?  どんな男だか見てみたいわ。私の良人にぴったりじゃないの。  でも、それをあからさまに面に現すのがはばかられたのです。  あさましいような気がしたのです。それだけです。  もっとも娘は、自分のあさましさにはとっくに気づいておりました。  ですが、それを鹿に知られるのが嫌だったのです。  それは鹿を畜生と見なしていたからです。  あくまで人間としての尊厳を保とうとしたのです。  もし鹿に自分のあさましさを見透かされてしまったら、畜生以下の存在になるような気がしたからです。  容姿の優れた女というのは、得てしてそういうものなのです。  そこで、グズグズと、鹿がかわいそうなフリをしていました。  ですが何度も鹿に懇願されると、仕方なくといったように、一番大きな包丁を手に取りました。  実のところ、娘は鹿が何度も懇願してくるのを期待していたのです。相手からそうさせられたといった体裁にしたかったのです。 「じゃあ、あなたには悪いけど」  娘は鹿の首筋に刃を当てました。 「くれぐれも、全て余すところなく調理してくれ。一滴の血も漏らさずだ。角や蹄は、私の血で煮込めば柔らかくなる。骨も同様だ。毛皮は取っておきなさい。彼が来たら、毛皮を被って彼の前に出ていくんだ。そうすれば彼はお前のことを私だと思うだろう。そうしてこう言うのだ。『お帰りなさいませご主人様。お食事の支度ができております』」 「わかったわ」  娘はいい加減、鹿と話すのがうんざりしてきて、サッと刃を引きました。  血がほとばしりましたが、うまくそれを大鍋で受け止めました。  娘は料理は得意でしたから、鹿の言うようにきちんと調理する自信がありました。  心の中では、早くその美少年とやらを見てみたい気持ちでいっぱいでした。  やがて首筋から血が出なくなると、天井から鍵で吊るして、さらに血を抜きました。  全部抜いてしまうと、今度は包丁を使って腹を裂きました。  内臓を洗おうと思いましたが、一滴の血も漏らさずにということでしたので、そのまま鍋に入れて、香辛料とともに煮ることにしました。  やはり食べる物がなかったのでしょう。  鹿の内臓には何も消化物が入っていませんでした。  娘はしばらく料理に没頭しました。  毛皮を傷つけないように、丁寧に剥ぎます。  一つ一つ肉を切り分け、串に刺しました。  骨を鋸で切って、血の溜まった鍋に入れました。角と蹄も一緒にしました。  そうして竃に火を入れると、それぞれの鍋を火にかけていったのです。  なにしろ一頭の雄鹿を完全に調理してしまうのですから、どれだけ時間がかかるかわかりません。  3日後に男がやってくるということでしたが、それまでに完成できないかもしれません。  娘は一睡もせずに、飲まず食わずで仕事をして、とうとう3日目の朝に完成しました。  角と蹄と骨を煮込んだスープも、トロトロに柔らかく仕上がりました。  そんな固いものが入っていたとは信じられないぐらいです。  血はまるでトマトスープのような風合いになっていました。  娘は料理を皿に取り分けてテーブルに並べました。  そうして初めて、自分が休みなしで働いていたことに気づいたのです。  そうしてみると、急に空腹感と疲労感を感じました。  今まで不思議とそういったものは感じませんでした。  神経が興奮していたせいかもしれません。  テーブルに並べた料理は大変においしそうで、食欲をそそられるものでした。  それを見ていると、娘も少し食べてみたくなりました。  こんなにあるんだもの。  少しぐらいなら構わないわよね。  味見だってするものですもの。  それに男の人が来る前に、私が飢えて死んでしまっては、元も子もないわ、と思いました。  そこで臓物を煮込んだものから、食べ応えのありそうな肉を選んで口に運びました。  味は期待したとおりのものでした。  野性味が感じられて歯応えがあり、それでいて獣特有の臭みはすっかり消えて食べやすくもありました。  娘は満足感を覚えると、眠気を感じました。  夜まではまだだいぶ時間がある。  それまで寝ていましょう、と奥の部屋に行ってベッドに横になりました。  そしてどれだけかが経ちました。  娘は眩しさを感じて目を覚ましました。  窓から赤々とした月の光が差し込んでいました。  いつのまにか夜になっていたようです。  こうしてはいられません。  娘は急いでベッドから出て台所に行くと、鹿の皮を被りました。  そうしてテーブルの席に座り、彼が来るのを待ちました。  やがて、月が南の空の真ん中に昇る頃、トントンと扉を叩く音が聞こえました。  彼が来たのだわ、と思い、娘は入り口の扉を開けました。  そこにはぼうっと青白く透き通った男の人が立っていました。  娘は一目見るなり、彼を気に入りました。  彼は、村のどんな男よりも、美しい顔をしていました。  背も高く立派です。もっとも今は透き通っていますが、これに肉体がついたらさぞかしと思われました。  男は扉の前で立ったまま、戸惑ったような表情をしておりました。  そこで娘は、鹿に言われたようにこう言ってやりました。 「お帰りなさいませ、ご主人様。お食事の支度ができております」  男の表情は曖昧なままでしたが、娘の言葉を理解したのか、中に入っていってテーブルに着きました。  そうしてナイフやフォークを使いながら、娘が用意したものを一つ一つ食べていったのです。  娘は男の食べるさまを見て、これは身分の高い男に違いないと思いました。  仕草が洗練されていて、非常に上品でした。  村にはこのような食べ方をする男はありません。  村の男たちはもっと粗野で、空腹を満たすためだけの食べ方をします。  ですがこの透き通った男は、料理の微妙な味の違いを確かめるように、それでいて料理人の腕を値踏みするようないやらしい色を顔に浮かべることなく、淡々と食べておりました。  犠牲となった命に感謝を捧げながら、それでいてやりすぎることなく、命を奪わねば生きていけない悲しさを十分に知りつつ、それでいて自然の法則の残酷さに身を委ねるものでした。  娘は思いました。  この男こそ、自分の良人になる人に違いないと。  実際、娘は男の食べる仕草しか知らないのですが、この娘も一般的な若い娘の例に漏れず、ほんの一部分の在り方を見て、まだ見ぬ全体までもそうであるに違いないと思い込んでしまう傾向があったのです。  ええ、いかなる食べ方であろうと、それはその部分における技術の問題にすぎません。  たとえばある若い男が、無造作に虫を踏み潰しかけていたのに気づき、急に足を止めようとしてバランスを崩して転んでしまったとします。  そうして言うのです。 「おおよかった。踏まずに済んだ」と。  それを見ていた若い娘はこう思います。  この男は虫にも情けをかけるほどの心根の優しい人に違いないと。  ですが、男が虫を踏みたくなかったのは、単純に新しい靴の裏に、汚いシミができるのが嫌だったからかもしれません。  あるいはこういうこともあります。  偶然、人に親切にしているところを見て、ああこの人はいつもどんなときも誰に対しても親切なのだ、と思ったりもします。  でもそれは男が損得勘定で動いた結果であったという、それだけだったかもしれないのです。  いずれにせよ、この娘もそういった浅はかで、自分の夢の世界にどっぷり浸かりながら生きている女でした。  娘は胸を高鳴らせながら、男が食事するのを見ておりました。  それは見るのに楽しい光景でした。  男が一口一口飲み込むたびに、だんだんと透き通った体が色づいていくのです。  頬に赤味が差し、肉体が力強さを取り戻していくのがわかります。  まるで食べた鹿の肉がそのまま男のものになっていくかのようです。  徐々に肉体ができあがっていくと、男は娘が思っていた以上に美しくたくましい人でした。  娘は我慢ができなくなって、男の腕に触れてみました。  そのとき鹿の皮が脱げてしまいました。  娘は一瞬しまったと思いましたが、男は気にした様子も見せず、食べ続けておりました。  そしてとうとう全ての料理を食べ終えるときがきました。  最後に血のスープを飲み干すと、まるで生まれたばかりの赤ん坊のように、男の頬はバラ色に染まりました。  その間、娘はずっと側にいて、男の腕やら胸板やらを手で撫でておりましたが、男は気にせずに淡々と食事を続けておりました。  男はゆっくりと娘を見つめると、にっこり微笑みました。 「ありがとう。あなたのお陰で、魔女にかけられた呪いが解けました」  それは大変に美しい声でした。男の強さと、女の繊細さを併せ持った、この世のものとは思えない声でした。 「どういたしまして」  女は最大限に媚態を含んだ眼差しで応えました。 「私はシャビ国の王子です。肉体を無くして、砂漠を亡霊のようにさまよっていましたが、これでようやく国に帰ることができます」  娘はうっとりして王子を見つめました。 「ねえ、王子様。あなたの国はどこにあるの?」  シャビ国という名前は娘は聞いたことがありませんでした。 「この砂漠を抜けて、海を渡り、山を3つ越えたところにあります。そこは緑豊かで恵まれており、気候の温暖なところです。レモンやオリーブが実をつけ、家畜をたくさん飼っています」 「王子様、私をそこへ連れてってくださいまし」 「ええ、もちろんですとも。あなたは私の恩人なのですから」  そう言って王子は娘を抱きしめました。  そこで吟遊詩人は話を置いた。  ジャバの酒は、もうほとんどなくなっていた。 「それで」  と、ジャバは先を促した。 「どうなったんだい?その王子と娘は」  吟遊詩人は意味深な微笑みを浮かべた。 「それだけですよ。話はそこで終わりです。さて、夜が更ける前に、私もお暇しましょうかね。話を聞いてくださり、ありがとうございました」  座ったままだが、深々と頭を下げる。  詩人の酒は少しも減っていなかった。 「おいおい。待ってくれよ。今の話、俺はめでたしめでたしで済むとは思わないな。だってその女は、腹に一物持ってるような女だぜ。いっときの感情で王子の元へ嫁いだって、じっとしているような女じゃねえ。それに、あんたがそんだけのためにわざわざ俺に話をするとは思えねえ。確かに珍しい話かもしれないが、吟遊詩人が人に話さずにいられないようなものとも思わないぜ」  言いながら、ジャバは少し酔ったかもしれないと思っていた。  酒に弱くなったのか、それとも少しペースが速すぎたのか。 「ふふふ。それだからこそ、あなたをお選びしたのです。いいでしょう。お話しいたしましょう。王子は娘を抱き寄せて、熱い口づけをしました。そして気づいたのです。呪いが完全には解けていなかったことに」 「するってぇと」 「肉体が完全には戻っていなかった。つまり、肉体の一部がなくなっていたのです」  ジャバの視線が下がる。  テーブル越しに、そこにないものを見ているかのように。  もはや彼の中から遠慮が消えていた。 「ええ、構いません。あなたのお察しのとおりです」  ジャバは顔を上げた。 「てことはどうなる?その…」 「結ばれませんでした。物理的に機能がありませんから」  吟遊詩人は慈愛に満ちた微笑みをしてみせた。  だが、どこか悲しみを含んでいるような、人間離れした微笑みのようにも、ジャバには見えた。 「なんで…」 「女が鹿の肉の一部分を食べてしまったからです。王子はそのまま諸国をさすらうことになりました」 「一部分って…。おいおい」  ジャバはおかしな想像をしてしまった。  それを打ち消すように、グラスに残った酒を飲み込む。 「あなたはどうするとお思いです?カストラートは、切り離された自分の一部分を、後生大事に保管しているとでもお思いでしょうか」 「いや、それは…」  考えたこともなかった。  それに、吟遊詩人が自分から踏み込んだ話をしてくるとも予想していなかった。 「もし自分で保管しているとして、それを見てなんと思うでしょうね、カストラート本人は。かといって、誰か別の人が持っていたら、気味が悪いですね。では、どうするのでしょう?」  犬にでも喰わせる……、なんてことをチラッとでも考えた自分を、ジャバは恥じた。 「教会かどこかに納めてあるとか」  咄嗟に陳腐な答えを言ってみたが、吟遊詩人はそれが正解かどうかを教えてくれなかった。 「そもそものカストラートの成り立ちは、そういうことだったと言われています。あるいはそれは愛の形なのかもしれません。愛するがゆえの行為だったかもしれません。究極の愛とはそういうものなのかも。男女の愛が究極に達したところから生まれたのが、カストラートなのかもしれません」  ジャバはただ、詩人の話すことに耳を傾けるだけだった。 「ご心配なく。今ではもうそんなことは行われておりません。カストラート自体、もうこの世にいない存在なのです。これから先、そういったものが生まれることもないでしょう」 「どうして」  ジャバはやっと短い言葉を発した。 「あなたは芸術とはなんだと思われます?澄んだ流れの中から生まれるのが芸術でしょうか?それとも芸術とは、澱んだ水溜りから立ち上るものでしょうか?一つの恋愛も知らないものが、どんな恋の歌を歌えるというのでしょう?身を焦がすような渇望感や、自分の心と体を暴力的に振り回す圧倒的な力を経験せずして、どんな芸術を生み出せるというのでしょう」  ジャバにとって、芸術とは生きていくための手段に過ぎなかった。  日々の活計を得るために、いくばくかの金に変わればそれでよかった。  たとえそれが肉欲に花を添えるだけの存在に過ぎないとしても。 「ですが、この世に悪が生まれる前の世界を、神が見た景色を、原初の人が感じた喜びを、他の誰が歌えるというのでしょう。生まれたての赤ん坊が感じる圧倒的な恐怖と希望を、肉欲に塗れ、穢された者が歌えるのでしょうか?一体、芸術とはなんなのでしょう。欲に奉仕するものなのか、それとも清浄な世界へと人々を導くよすがとなり得るものなのでしょうか?」  ジャバには答えが出なかった。  それを酒に弱くなったせいだと思うことしかできなかった。  答えが出ない代わりに、質問が出た。 「なあ、あんたはよかったかい?カストラートになって」  だが吟遊詩人は、その質問にも答えなかった。 「王子の話は実際にあったことです。彼は今もさまよい続けています。失った自分の一部を求めて。芸術とは、欠乏を埋めようとする欲求から生まれるのです」 「あんた、もしや…」  いや、あり得ない、とジャバは思った。  どうも今夜はおかしなことばかり考える。 「さてと。行くとしますか。あんまり遅くまであなたをお引止めしてもいけません。あなたに話を聞いていただいてよかった。これで私も心置きなく旅立てます。次の旅では、何が待っているでしょう。どんな物語に出会うでしょうか」  吟遊詩人は音もなく立ち上がった。 「グラスに口はつけていませんから、よろしければどうぞ。あ、そうそう。それから、私は今夜、一つだけあなたに嘘をつきました。たった一つだけです。それだけは謝っておきます」 「お、おい」  吟遊詩人の酒は少しも減っていなかった。  それより俺はまだあんたに聞きたいことがある、そう言おうとして、ジャバは自分の目を疑った。  吟遊詩人の姿はもうどこにも見当たらなかった。  店内を見回してみたが、店の入り口の方にも、どこにもいなかった。 「ふう」  ジャバは肩の力を抜いて、残されたグラスの中身を見つめた。 「なんでえ、あんたの奢りじゃなかったのかよ」  演奏が終わったのか、店のピアノマンが立ってお辞儀をした。  パラパラと、拍手はまばらだった。  ジャバは一気に葡萄酒を飲み干した。  今日の出来事を、明日まで記憶に残さないために。
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