胡桃色の記憶【side:シーディ】本編3話読了後

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胡桃色の記憶【side:シーディ】本編3話読了後

【シーディ】18歳、覇王戦争から10年後 北自治郡出身。自衛兵団団長の下に養子として引き取られ、幼い頃から自衛兵としての任務についている。 「…団長、御用ですか」 扉を開けて室に入った。彼はこちらを一瞥することもなく専用の武器の手入れをしている。自衛兵団には武器庫も、当番で手入れの係もいるが自分のものは自分で手入れするのが、彼のこだわりであるらしい。 「そこの書類に俺の署名をしておけ。目を通して、役所に渡すぶんはまとめておけ。あとで送らせるから」 シーディは執務用の机の上に目を遣る。そこには乱雑に積み上げられた本や書類があった。久々に呼ばれたと思ったら、そのぶんは消化されずに溜まっているらしい。自衛兵の名簿の更新があるのだろう、やたらと分厚い書類まで抛り置かれてある。 秘書役をしていた青年が自衛兵団を去ってから、その仕事はシーディのものとなった。たまに呼びつけられては役所に提出する資料の片づけを手伝わされたり、意外にも多い自衛兵団の事務仕事を託されている。 「シーディ」 取り掛かろうと椅子を引いた横から名を呼ばれる。 「…はい」 「終わったら、一杯つき合え」 思わずふいと視線を遣った。 団長はなにごともないような態度で、目線は手許に注がれたまま顔を上げることもない。 「……はい」 頷いても返事はなく、大人しく椅子についた。 役所からの警備と巡回の要請予定についての書類だとか、報酬の確認だとか。役所の人間は何でも紙に書いてくるのが好きらしく、それもいちいち確認の署名を求めてくることに無駄を感じてしまう。 しかも自分が目を通すことが役立っているのか疑問に思える。 怠惰にペンを動かす行為に寂しさを感じた。 「…団長」 「…なんだ」 気のない声が降りかかってくる。 「…何で、俺が…この役に選ばれたんですか」 「…不満か」 棘のある声音に悪寒に近い感覚が走った。 「いえ、そういうわけでは…」 「だったら大人しくしていればいい」 冷たく突き放された言葉に、シーディは思わず唇を噛んだ。 目の前の文字に意識を戻そうとしても身が入らなくなる。 彼にとっての自分が、解らない、と思う。 すこし離れて暮らす妹が彼のことをお父さん、と呼ぼうが、周りに親子だから、という目で見られようが、未だに信じきれないでいる。 『俺の子になれ』 そう云われたのは現実だっただろうか。あれ以来、一度もそんな言葉を聴いたことがなかった。 ただ、すこし眼をかけられている一介の兵士に過ぎないのではないかと、思ったのは数え切れないほどだ。 「シーディ」 低く呻るような声で呼びかけられて、我に返る。 「…はい」 シーディは返事はするも、ふり向きはしない。 その気配で、立ち上がった彼が近づいてくるのが解った。 「お前、…手見せろ」 突然の命令に、それでも抗うことはできずに、署名をしようとする手を止める。ペンを握るのがぎこちない右手に浅黒いがっしりとした手が伸びる。 手首を捕まれてペンが滑り落ちた。 「…捻挫……昨日のか」 腫れて熱を持った手首に触れて、団長は呟くように云った。 昨日、団長との特別の手合わせで、彼の剣を受けて衝撃で捻った。そのまま今日は訓練に出て、やや悪化した気はしていたが気づかれるとは思わなかった。情けなさが込み上げて顔を上げられなくなる。きっと団長だって呆れているのだろう。 「…今日はもういい」 ため息混じりの声が優しく聞こえて、シーディは耳を疑った。思わずその顔をふり向く。 「…失礼な表情(かお)をしてるな」 眉を寄せて悪態を吐いたいつも通りの団長が、するりと踵を返し背を向けた。 団長の気に入りの葡萄酒が、グラスに注がれ波を立てる。 ごくりと喉を鳴らす音が耳に響いた。 「お前、テオには会ってるのか」 途切れ途切れの会話。こちらを見ずに放たれる言葉に、そちらを向かずに頷く。 「…はい、時々」 室の窓辺の長椅子に、つかず離れずの距離をとって腰を下ろしている。 その手前の卓の上、竹の包み紙を開いただけの鹿肉の燻製を無骨な指がつまんだ。 団長はそうか、と頷いただけで、また沈黙が訪れる。 「…あいつ」 団長が声を発したことで、その沈黙は珍しく短く途切れた。 「退団式のあと、俺の処に来て、云いやがった」 ふん、と思い出し笑いをするように鼻を鳴らす。彼が昔のことを憶えているなんて、意外だと思った。 「訓練の間だけじゃなくて、お前ともっと、時間をつくれってな…… そりゃあ結構な剣幕だった。ファズがちょうど一緒だったが、笑いながら、じゃあ私の役をあげます、と云って結局本当に出て行きやがった」 「…テオ…」 思わず苦笑する。想像が容易いから面白い。云い切ったあとの、瞳が泳ぐところまで想像できる。 「…だからだ。お前は真面目だから、適役だったな」 ここまできてやっと話の意味が解った。突き放した答えを、きちんと与えてくれようとしたのだ。 返事が見つからず、無言になると、彼もそれから言葉を続けることなく沈黙が訪れる。 静かにグラスに口をつけ、耽美に流し入れる様はまるで生き血を啜るようだ。 グラスが空になるのを見届けて、瓶を差し出しまた満たす。受け取った団長は腰を上げると、窓辺に立った。 その窓の向こうに浮かぶのは、煌々と居座る望月。 その背をとても大きいと思う。いまでも、なお。 初めて見たときから変わらない、強い強い背中。 『どうして、俺たちを引き取ったんですか』 ずっと訊きたかった台詞は、いまでも声にすることができない。 同情か、気まぐれか、答えを知ってしまうのが怖いだけかも知れない。 『後継者を創りあげるために、小さいあいつを引き取って、軍に入れて育てているらしいぜ』 偶然耳にした噂話で、自分はそんなふうに云われていた。 そんなことを考えたことはなかったけれど、なるほどとやけに腑に落ちてしまった。 『それでもいいんだ。応えたい』 胸の中でずっと燻ぶる想い。 求められるように、望まれるように、応えたいと願う。その背中を、追い続けていたい。 それはあの日から、この記憶の始まりのあの日から生まれた。
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