1 “記念撮影について”

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1 “記念撮影について”

1 『だから明日はご飯は適当に食べてね』 七海がそう言うと、洗面所のほうから『はいよー』という軽い調子の声が帰ってくる。 絶対明日には忘れていると思う。 ゆーちゃん忘れっぽいから。 水道を止める音。 しばらくしてからゆーちゃんがキッチンに来る。 『なっちゃん明日何時に帰ってくるん?』 洗い物をする七海に聞いてくるゆーちゃん。 この人が私の彼氏、松井 幸斗(まつい ゆきと) 七海より2つ年下の24歳。 職業はカメラマン。 甘えん坊だけどイケメンで、笑った時の明るい顔がすごく好き。 『んー、会議とかもあるし10時近くなりそう』 『大変だなぁ保育士さんは』 確かに実際、保育士の仕事は大変だ。 覚えることも多いし、小さい子どもたちと関わるから気を張らないといけないことも多い。 だけど、私の小さな頃からの夢で、 必死に勉強してやっと叶えた。 私が保育園の年中の時の田辺 寄子(たなべ よりこ)先生に憧れてから、ずっと私の憧れは保育士さん一筋だった。 そんなこんなで、今は仕事も恋も順調なんだけど‥‥‥ 七海はちらりと、冷蔵庫を漁る幸斗を見る。 (そろそろ、かなぁ) 結婚。 七海も26だし、そろそろ身を固めたいと思い初めていた。 でもゆーちゃんはまだ24。 きっとまだ早いって言われるよね。 でも、結婚して子どもを早く産みたいという気持ちが最近強くなってきているのだ。 孫の顔を見たいと両親に言われたわけでもない。 七海の母は七海が10歳の時に亡くなっている。 病名は知らないけど、みるみるうちに痩せていった姿は覚えている。 一方父は男手一つで私を育ててくれたが、 去年亡くなった。 氾濫した川に流されたのだ。 ‥‥‥だからこそ、かな。 両親の死を見て、私自身もいつこの世を去るのかわからない。 その考えが私に子どもを欲しいと急かすのか。 私がこの世にいたという証明を残すために。 (馬鹿 なーに考えてるんだろ私) 私が子どもを残していってしまったら、私が味わった片親という体験を子どもにもさせてしまう。 私も生きなくては。 子どもの為にも、ゆーちゃんの為にも。 『明日雨降らなければいいな』 気を紛らわせる為に全く関係ないことを口にする。 『明日は晴れらしいよ?』 ゆーちゃんが緑茶のペットボトルを手にし、冷蔵庫の扉を閉める。 私の唐突な一人言に答えてくれた。 明日は晴れ、か。 遠足だからというのもあるが、昔からこの潜上市(もがみし)では水難事故が多い。 海に近いということもあるが‥‥‥、 七海の父のケースのように、川も雨で氾濫しやすい為、 海だけではなく、川でも稀に水死体が上がる。 海でもそうだ。 海水浴中に突然の大雨で沖に流され、溺れてしまう事故も何度か起きている。 そういう心配度がやはり晴れと雨では違う。 明日が晴れてくれれば、園児たちが溺れてしまうという心配はひとまずそうない。 さざなみ人形パークは海に近いので全く危険がないわけでもないが‥‥‥。 『心配ならてるてる坊主作っておこうか?20個くらい』 『ゆーちゃん本当にやるからだめ』 私の彼氏はたまにこういうこと言うし、 本気で実行するから困る。 私の誕生日の日なんて『部屋に風船置いて飾り付けるね!』 なんて言って、実際に帰宅したら 割れた風船の残骸が山のように床に落ちていた時もある。 要するにアホなのだ。 でも、頼れるところもあるし 私はゆーちゃんが大好きだ。 この人と結婚したいと心から思う。 風船事件の日も、机に突っ伏して寝てたけど 私に新しいバッグを買ってくれて置いてあったし(しかも手紙付き)。 そういう優しい部分に惹かれたのかな。 『あ、なっちゃん! カメラ机に置いておくから 明日勝手に持っていってね 俺多分寝てるから』 『ありがとうゆーちゃん』 明日ゆーちゃんはお仕事は休み。 だからゆーちゃんが前に仕事で使っていた一眼レフカメラを明日の記念撮影用に借りることになっている。 今ゆーちゃんが使っているカメラの2つくらい前に出ていた比較的新しいやつだから すごく綺麗に写ると思う。 後は私の腕前次第。 明日のことを入念にシミュレーションしながら、七海は早めに眠りについた。 今日は遠足前日。 七海も少しわくわくしていた。 2 午前7時。 七海が“せんせいのへや”に入る。 小学校とかでは職員室と呼ぶが、保育園や幼稚園ではせんせいのへやと呼ぶ。 私たち保育士もだ。 『ななみ先生おはよ~』 私が入るなり、机で折り紙の練習をしていた花岡先生がのんびりとした口調で言った。 花岡 桃音(はなおか ももね)。 私の一つ年上の先輩保育士だ。 美人というよりかわいい。童顔でいつもにこにこしているから、女子児童たちからの憧れの的だ。 大きくなったら桃音先生みたいになりたい、みたいな いわゆる理想のお姉さん、みたいな憧れだろうか。 『おはようございます桃音先生 今日は何を折るんですか?』 『チューリップにしようかなぁって』 桃音先生の得意な折り紙。 お遊戯の時間で、たまに桃音先生が折り紙を教える時がある。 私も折り紙はある程度は折れるけど、 桃音先生がみなも保育園の折り紙チャンピオンだ。 机の上にはヨットや鶴なんかも完成した状態で置いてある。 一昨日まで、『鶴にしようかなぁ』と言っていたけど、 桃音先生の担当する年少さんには鶴は難しいんじゃないかという高坂先生の意見により、 もう一度考え直した結果、 どうやらチューリップで決まったようだ。 チューリップなら比較的簡単だし、いいと思う。 『ところでななみ先生?今日はにじ組さんは遠足でしょ?』 小さい子どもに聞くかのように優しい口調。 桃音先生はこれが素なのだ。 『はい 曇りなので遠足日和って感じではないですけどね』 『確かにねぇ‥‥‥雨降らないといいけど』 ゆーちゃんは晴れって言ってたけど、本当に晴れるのかな? むしろこの灰色の空模様を見ると、 どちらかと言えば雨の確率の方が高そう。 それから30分ほど、色々と準備をしながら 桃音先生と話しているうちに他の先生たちも集まり、 朝礼が始まった。 3 『にじ組のみなさん、おはようございまーす!』 『『『おはようございまぁぁす!!!』』』 七海の挨拶に、数十倍の声量で子どもたちの声が返される。 にじ組さんは21人。 それなりに大人数だ。 男の子が12人、女の子が9人でわりとバランスは取れている気がする。 『今日は親子遠足です! お父さんお母さんの言うことをよく聞いて、楽しい遠足にしましょうね できる人ー?』 『はーい!』 全員の大合唱。 お父さんお母さんと繋いでいないほうの手をあげて返事をしてくれるのを確認してから 『お父さんお母さんもお忙しい中、お時間を取って下さってありがとうございます』 七海はぺこりと頭を下げる。 『今日の遠足は自由行動のお時間が多いので、お子さんたちとぜひ一緒に楽しんでください』 それから改めて、本日の予定を伝える。 事前に配ったプリントにある通り、基本的に親御さんとの自由行動。 あとはみんなでお弁当を食べたり、記念撮影など。 12時半には一度集まり、今いる入口に近い広場で昼食。 14時半には最後に全員で記念撮影をする為、ある人形の前に集合となっている。 (先に下見しておこうかな) 先生は園内を回り、子どもたちの様子を見ながらスケジュールに不備がないかを確認することになっている。 そういう意味では先に人形を見に行っておいてもいいだろう。 何なら、ゆーちゃんに借りたカメラで試し撮りしておこう。 熊の人形、ペンギンの人形、カエルの人形。 それらも記念撮影の候補にはあったけど 今回の記念撮影でみんなと一緒に撮るのは このさざなみ人形パークで唯一、人の形をした人形。 通称、“兵隊人形”だ。 それは、さざなみ人形パークの海沿いのテラスの前に位置している。 (あった) 七海が見つけたのは、イギリスの兵隊を模した、1体の人形だった。 やけに広い場所に、ポツンとその人形はいる。 大きさは170cmほどか。 と言っても、頭に被っている“ベアスキン”と呼ばれる黒い帽子が長いから実際の身長は 150cmもないくらいだろう。 確か実際のベアスキンは40cmを超える長さだと昔TVで見たことがあるから、 この兵隊人形のは少し短いということになる 20cmほどしかないしね。 ボタン付きの赤い上着は、血のように真っ赤で、右手に持っているおもちゃの銃と合わさり、ザ・兵隊という雰囲気が出ている。 銃はあまり磨かれていないのか、少々錆びが目立つけど。 黒いミリタリーパンツに包まれた足は細く、黒い靴だけがやたら大きい。 なので兵隊だが、全体的な雰囲気は子供っぽさを感じる。 でも、1つだけ七海が納得できないポイントがあった。 それは、兵隊人形の目だ。 目元に干からびた海藻のようなものがへばりついていて、目が確認できない。 可哀想に思い、七海は海藻を引き剥がす。 意外としっかりくっついているのか、ぶちぶちという不快な音とともに引きちぎれる。 (うっ……これは) ようやく見えた目は、大きく見開かれ、周りの塗料が剥がれていて内部に赤や黒の線が走り、 まるで血管が浮いているようだ。 かっと見開かれ、血走っているようなその目とほんの少しだけ開かれた口元のせいで ひどく無表情かつ、不安になるような印象を受ける。 七海はその姿に、川で亡くなった父の水死体を思い出しかけ、気分が悪くなる。 何とか塗料や経年劣化のせいだと自分に言い聞かせ しばらくすると、慣れてきた。 確かに不気味だが、兵隊さん……イギリスの近衛兵をモデルとしていることもあり、 表情こそ怖いものの、普段見ることがないこの格好の人形は子供からは受けそうな気がする。 あまり考えないほうがいいかもしれない。 ……こういう時、大人は辛い。 いらないことを深く考えてしまうから。 純粋に第一印象だけで考えることができないから。 ひとまずゆーちゃんから借りたカメラで、試しに兵隊人形を1枚撮影。 カシャッという音とともに瞬くフラッシュ。 すぐに画面に表示される今撮影した1枚を確認。 うん、問題なし。 遠目に見れば表情もあまり怖くないかも。 ブレとかもないし私でも何とかなりそうだ。 ゆーちゃんありがとう。 さて、そろそろ別の場所を見に行こうかと思い、 七海はカメラから顔を上げる。 あれ、若干人形の目の向きがさっきと違うような……? (気のせい気のせい 疲れてるんだよ私) 頬をぺしぺし叩き、その場を後にする。 何だか最近よく疲れる。 私ももう年かなどと考えながら、次の場所へと向かった。 曇り空は一向に晴れる素振りを見せなかった。 4 『ほんとはみんなでとりたかったんだよ』 橋本 泉は両親にそんな話をする。 今日の遠足に1人、体調を崩していて来ていない子がいるのは泉の母も知っていた。 『誰がお休みしてたの?』 食器を洗いながら聞く。後ろで泉が洗い物が終わるまで見守ってくれているのは我が家でのいつもの光景。 リビングからTVのスポーツニュースの音声が聞こえている。 またあの人、点けたままお風呂に行っちゃったみたい。 電気代がもったいない。 『レナちゃん』 『あら 大丈夫かしら』 『ねつがあるんだって!』 藤原レナちゃんはにじ組さん唯一のハーフの子だ。 確かお母さんがイギリス人の方で、とても日本語が上手い。 そして親子ともに美人だと評判。 そんなレナちゃんが体調不良により今日の遠足に参加できなかったらしい。 『レナちゃんだいじょうぶかなあ』 『ねー、早く治るといいけど』 洗い物が終わり、水道を止める。 きつく蛇口を閉め、かけてあるハンドタオルで濡れた手を拭いているとそこで記念撮影のことを思い出した。 『あ、泉? 記念撮影の写真いつだって?』 『さらあらいしゅう!』 『再来週ね』 配られるって書いてあったから早く見たい。 娘の姿も同行した主人の姿も。 ……とくに、主人の姿は。 『はい、じゃあお着替えしようか』 『はーい!』 今日はほとんど、遠足の話を泉はしている。 お風呂を上がっても、布団に入ってもそれは変わらなかった。 夜の9時を過ぎてから、『もう寝る時間だよ』と言ってもなかなか寝付かなかった。 ようやく寝息を立て初めたのは、9時41分になった頃だ。 いつもより30分以上夜更かし。 泉が眠ったのを確認して、私は寝室を出る。 明日の泉の準備をしておかないと。 寝室を出る時、『むぅ』と泉が小さな寝言を言った。 疲れているのか、普段は寝相が悪い泉は 今日は全く動かなかった。 ……そして翌日。 私が5時に起きる。 主人も泉もまだ起きていないだろう。 布団から身体を起こし、背伸びをしてから私と主人の間の布団で眠る泉をちらりと見た。 叫びそうになった。 泉の布団が血まみれになっていたから。 『泉!?』 慌てて布団を捲る。 顔まで潜っている泉。 捲られた布団から出てくる真っ赤な塊。 それは両目をえぐられた愛娘の変わり果てた姿だった。 ピンクのパジャマがほとんど赤黒く染まり、 何故か全身がびしょびしょに濡れている。 『おい、なんだ』 私の声で目を覚ました主人の声はもはや私には聞こえない。 私は泉の名前を呼びながら、愛娘の布団に残る血と潮の混じった香りで 盛大に吐いた。 泣きながら吐いた。
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