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第2章 出会い編(中高生期)
「……『ブロバリン』って、“ブロムワレリル尿素”の? 眠剤だよね」
と、井上センセは聞いてきた。オレの前髪に落っこちた枯れ葉をつまみ取りながら。フシが太くて引き締まった長い指。大人の男のひとの手って感じで。好きだ。
引かれるように指を伸ばして、触れてみた。少し冷たいね。ギュッって握りしめて、あっためたげよっか。オレ、体温高いし。
「良く知ってんね、センセー。文系なのに。おクスリに興味あんの? ヤバいんだ」
でも、ちょっとヤバめなニュアンスが匂うひと、キライじゃないよ。キイっちゃんを思い出すから。
最後に会ったのはキイっちゃんが高校を受験する直前のお正月だったけど。キイっちゃんが大人んなって、もしか、高校のセンセになってたら、井上センセに似てたんじゃないかとか。ナニゲに思う。
枯れ葉が、またヒラヒラと目の前を通り過ぎる。
中等部と高等部のキャンパスの真ん中にある共同のクラブハウス棟を囲むちょっとした緑地広場は、意外とヒトケのない穴場で。
「とっとき」の秘密の課外授業にはウッテツケの場所。大きなケヤキの幹にもたれて。オレは、センセの目を見上げる。二重マブタの目。夕暮れの色を映して、澄んだ紅茶の色みたいに光って。フッと明るい笑いを浮かべる。
「ヒトギキ悪いこと言わないでよ。文系だからこそ知ってんの。“ブロムワレリル尿素”って。芥川も金子みすゞも、それで自殺してるし。太宰もそれ使って何度か自殺未遂起こしたって」
「ふーん。……カネコミスズって、『雨にも負けず、風にも負けず』のひとだっけ?」
「それは宮沢賢治。こぐまちゃん、良く入学できたよね、この学校」
「あー、バカにしてる」
「そうじゃないけど……」
「まあ、このガッコできたのって、ちょうどオレが中等部の試験通ったときだったし。中高一貫の新設校なんて、こんなイナカじゃナジミなかったから。中学受験なんてメジャーじゃなかったもん。志願生も、あんま集まんなかったみたいで。まだ倍率低かったんよ。それに、あの頃の中等部の学科試験って、全部マークシートだったもん。おもっきし野性のカンだけで点数かせいじゃったの、オレ。すごくない?」
「すごいけど。こぐまちゃんちのご両親って教育熱心なの?」
「ううん、全然。自由奔放なホーニン主義。ウチって」
「じゃあ、こぐまちゃんが自分の意思で志願したわけ? 中学お受験」
「なんだよー。その意外そうな顔!」
「だって。こぐまちゃん、勉強キライでしょ?」
「センセの授業はスキだよ。大スキ」
「あ、ありがとう……」
ふふふ。ホッペタ赤いよ、センセ。
ハッキリした二重マブタにちょっとアンニュイな影を作る、彫りの深い目鼻だち。現国の産休代理として、センセが初めてウチのクラスの教壇に立ったとき、女子たちがキャーキャー騒いだもんだよね。あんときもセンセ、赤いホッペタしてた。
ねぇ、センセって見かけに寄らずウブだよね。子供のころからマジメにベンキョばっかしてたんしょ? 分かるよオレ。
オレがジーッとセンセの顔を見つめ続けたら、教科書を読み上げる声がウワズったもんね、センセ。何度もセキバライしてごまかして。可愛かった。すごく。
授業のたんび、いつもいつもセンセの顔を見つめてた、オレ。ひたすら見てた。彫りの深いクッキリした二重マブタ。
はじめはセンセ、気まずそうにオレから目を反らしてたよね。アセりまくった表情で。目が合いそうになると、サッと。
オレの目をまっすぐに見返すようになったのは、1か月くらいたってから。ある日、急に。思いつめたみたいに。視線がカチ合った瞬間、目を反らさないで真っ直ぐオレを見返して。射るみたいな目で。
ゾクゾクしたよ、オレ。サッと目を反らしたのは、今度はオレの方で。
センセ、あんとき、どんな気分だった? オレは、すっごくドキドキしたよ。ありふれた陳腐なカケヒキでも。ちゃんと、めいっぱいドキドキした。戸惑ってたセンセが、少しづつ大胆になってくるのが。たまんなく嬉しかった。
熱っぽい視線でジーッと見つめ続ける役は、センセの方に変わって。オレね、すっごく満ち足りた気分になれるんだ、そういう瞬間だけ。
センセが思ってるほど一途で純情じゃないんだホントは。ゴメンね。でも、自分のバケの皮を簡単にハガシたりしないから。センセを絶対に失望させたりしないから。
……恋をしてる気分に熱中させてよ。センセがこのガッコからいなくなる、春までは。
「オレね。『コーコージュケン』ってキーワードがトラウマでさぁ。中高一貫校だったら避けて通れるじゃん? だから、それで。ノリで受けたら受かっちゃった、みたいな」
言いながらオレは、握りしめたセンセの指をホッペタに当てる。センセは、ちょっとフクザツに瞳を揺らして。早口でウヤムヤにつぶやく。
「じゃあ……中学受験も、“キイっちゃん”の、せいだったんだ?」
「え? 何? 聞こえなかった」
「ううん。ごめん。なんでもないんだ」
センセはソソクサと首を振る。ああ、大スキだよ、その自嘲的なマナザシ。深い影を映す目元。二重マブタ。クッキリとミゾを刻んだ、キレイな二重マブタ。
「ねぇ、センセ。キイっちゃんはさぁ、『ブロバリン』で自殺未遂したけど。でも、文系じゃなかったよ。キイっちゃん。医学部専攻だったし」
「……もう、いいでしょ。こぐまちゃん」
「なにが?」
「サヤアテごっこのつもりなら、充分だから。もう。こぐまちゃん」
センセ、ギラギラした目でオレをニラむんだ。今にも殴りかかってくるんじゃないかってくらい。殺気だって見えて。すごくコワくて……ゾクゾクしちゃうんだ。体の芯が。ゾクゾクしちゃう。
あの日の押入れで見たキイっちゃんの目みたいなんだもん。ギラギラして。セッパつまって。欲望ムキダシでオレを射すくめる目。
いいよ、先生。もっと見てよ、その目で。オレのこと。オレのことだけ、ギラギラ見つめてよ。
「充分にダメージくらったよ。シャクだけど……」
舌打ちを、荒く弾んだ息と一緒に吐きすてて。センセはオレを抱きしめる。強く強く。
呼吸がつまりそうなくらいで。オレは、必死で深く息を吸いこむんだ。センセの匂いのする空気を。たっぷり吸い込む。肺の奥まで。
いつでもパリッとノリのきいてるシャツの胸元から、清潔な柔軟剤の匂い。スーツの袖口からは、かすかにチョークの粉の匂いもして。それから、甘いトロピカルフルーツの匂いのする息……
センセってば。また女子からキャンディーもらったんしょ? 簡単に餌付けされちゃダメだよ―――って、からかおうとした言葉は、センセにムシャブリ尽くされた。熱く火照った舌ごと、全部。
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