叶えられた思い

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叶えられた思い

◆ 叶えられた思い ◆ その日の夕刻の6時からはじまり、ジュンが、ヘアーとメイクアップのスタッフとして参加した若手デザイナーの秋冬コレクションの打ち上げパーティーは、ことのほか盛況だった。 パーティー会場となった明治通りと246号線に挟まれた渋谷のイタリア料理のレストランの店内には、コレクションに参加したモデル達や、マスコミ関係者、さらには、舞台裏でモデル達のフィッティングの手伝いをしてくれた服飾専門学校の学生達と、その教師達に、コレクションの演出スタッフ、そして、デザイナーが籍を置く会社の社員達が自由に動き回る事に苦労するほどに詰め込まれていた。 勿論、モデル達のヘアーとメイクアップを担当したジュンも、仲間のスタッフと一緒にその人込みの中にいた。 ジュンは、パリに本店を持つ南青山の美容室でスタイリストとなってから五年目を迎えていた。 普段はサロンに常勤して顧客達を相手に仕事をしているが、ジュンの顧客でもあるファッション誌の編集者達の依頼で、それぞれのファッション誌のモードページの撮影にも出向けば、この美容室のオーナーの直接の要請で、年に二度行われる様々な服飾ブランドのコレクションにも毎回駆り出されていた。 ここのところ、ファッションジャーナリスト達からの評価を鰻上りに高めているまだデビューして三年目のデザイナーの今日のコレクションにも、ジュンは、ヘアーとメイクアップを担当するチームの一員として参加していた。 コレクション当日のヘアーとメイクアップの仕事は、特にこれといって難しいものではない。 すでにコレクション当日までには、デザイナー本人とヘアーとメイクアップを担当するトップスタイリストによって、互いにアーティストとしての熾烈な駈引きの後、コレクションのテーマに沿ってのメイクアップとヘアーの確認が終えられているものだし、チームによる細かい打ち合わせと、必要な準備も整い終えている。 大変なのは、コレクション当日の時間との戦いだった。 パリやミラノやニューヨークでのコレクションと違い、東京でのコレクションは、本番までに几帳面過ぎるほどに幾度もリハーサルが繰り返される。 その度に、まだヘアーとメイクアップの仕上がっていないモデル達がステージへと駆り出され、バックルームでは、手持ち無沙汰となったヘアーとメイクアップの担当者達が刻々と仕事をこなすための時間を失っていくのが常だった。 数十人のモデル達のヘアーとメイクアップを打ち合わせどおりに仕上げなければならないコレクションでのバックルームは、時間との戦いでのみ戦場と化していた。 それでも、ヘアーとメイクアップを担当する者達が、コレクションの進行や演出を任されている者達に不平や不満をぶつける事はなかった。 仕事を引き受けた以上、その状況に対応するのがプロとして求められる当然の心構えと態度だったし、大勢のそれぞれの裏方のプロ達の手によって作り上げられるコレクションにおいては、そのスリリングな緊張感と、プロとしてのプライドが、客席から漏れ聴こえてくる溜息と、賞賛の拍手という成功を勝ち得るための大事な要素だったからだ。 勿論、この日の午後に続けて二度行われたコレクションでも、ライトに照らし出されたランウェイに向かうモデル達のヘアーとメークアップの最終チェックを行うため、ステージのすぐ裏に控えたジュン達の耳に、客席から次々に漏れる溜息や、デザイナー自らが最後にステージに登場した時の鳴り止まぬ賞賛の拍手が届いていた。 観客達から抱え切れないほどの花束を手渡され、シャイな仕草を見せながらも満面に笑みを浮かべるデザイナー。その瞬間に緊張感から解き放たれるモデル達と、ステージ裏で安堵の息を吐く裏方のプロ達。 共に同じ達成感を味わった者達が、コレクション後に再び集う打ち上げパーティーが、笑顔に包まれぬはずも、盛況でないはずもなかった。 コレクション会場のバックルームで、恍惚感に包まれながら戻って来たデザイナーの謝辞を受けた後、すべてのモデル達一人一人に声をかけながら送り出し、広がり散らかった仕事道具の後片付けを終え、一旦、南青山のサロンに帰ったジュン達のヘアーとメイクアップのチームスタッフが打ち上げ会場のレストランに到着したのは、すでにデザイナーによる挨拶が終った後だった。 レストランの従業員からシャンパンのグラスを受け取り、ジュン達はそれぞれ、混雑している店内を縫うようにして料理の並べられたテーブルに向かった。 「は~い、ジュンちゃ~ん!」 ジュンの背中越しに、女性の声がした。その声にジュンが振り返る。 顔見知りのモデル事務所の女性社長の倉木が、彼女の事務所に所属する三人のモデルに囲まれて立っていた。 170センチを超える身長を持つ三人のモデルに囲まれた150センチほどの身長しかない倉木が、ジュンにはいつも以上に小さく見えた。 三人のモデルのうちの二人は、今日行われたコレクション以外にも、すでに何度かジュンは一緒に仕事をしていた。その二人のモデルが、ジュンに向かって掌を見せながら指を小刻みに振った。 もう一人のモデルは、ジュンが初めて見る顔だった。おそらく、彼女も今日のコレクションに出演していたモデルなのだろう。だが、ジュンには彼女の記憶がなかった。 コレクションのバックルームでは、数十人のモデル達のヘアーとメークアップが、ヘアーの担当チームと、メークアップの担当チームにそれぞれ分かれて担当される。 コレクションに動員されるスタッフは皆、ヘアーもメークアップもどちらもこなせる者が多いのだが、そのシステムの方が、時間との戦いとなるコレクションでは効率的だった。 今日のコレクションでは、ヘアーを担当したジュンの周りにはすぐに顔見知りのモデル達が集まっていたし、そのモデル達を仕上げ終えてジュンが他のスタッフのフォローにまわった時も、彼女にはあたっていなかった。 勿論、すべてのモデルの仕上がりには眼を通している。しかしそれでも、時間との戦いに追われ、顔見知りのモデル達の一人一人に励ましの声をかけたり、ともすれば、張り詰めて尖りだす本番前の空気を雑談によって和らげようと気を配る中では、自分達スタッフの数よりも圧倒的に多いモデル達全員の、一人一人に焦点を絞り合わせるのは困難だった。 「ジュンちゃん、今日のヘアーとメイクは、ほんと素晴らしかったわ。」  倉木がジュンに向かって言った。 一般的にコレクションにおいて、ヘアーとメイクアップが、デザイナー本人以外から評価を受ける事は滅多にない。 人々やメディアにとっての興味の対象は、賞賛を勝ち得たデザイナー本人と、そのシーズンのトレンドであり、大事なのは、自分が如何にそのデザイナーと親交があるかという事であり、自分以外の他の人々に、自分がトレンドを生み出し発信する側の世界に属しているように見えているかどうか?・・・だった。 多分にビジネスのニュアンスがあるにしても、倉木のように、端役のような者にまで気配りを忘れない人間は、この業界にはあまり多くいない。 ジュンにとって倉木は、どちらかと言えば好感を持って挨拶を交わせる部類の人物だった。 「やっぱり、恭ちゃんのところのクォリティーは違うわね。」 倉木はいかにも古いタイプの業界人らしく、どんな相手であれ、広い範囲で自分と同じカテゴリーの世界にいて、自分にとっての有益性を確信している人間の名前を呼ぶ時の敬称は、必ず「~ちゃん」だった。恭ちゃんとは、ジュンの美容室のオーナーである田野倉恭平の事だ。 「お褒めいただいて、ありがとうございます。」 ジュンはオーナーの田野倉に代わって、つとめて丁寧に礼を言った。倉木が上機嫌に微笑んだ。 「あっ、そうだ、ジュンちゃん。この娘、うちの期待の新人なの。これから色々お世話になると思うけど、よろしくね。」  倉木が、美緒というモデルをジュンに紹介した。 「美緒ちゃん、彼がスタジオM(エム)のジュンちゃん。ジュンちゃんは、ヘアーメイクアップアーティストとして超有望株なのよ。業界では、もう、師匠の恭ちゃんを超えてるっていうもっぱらの噂の主。これから彼と一緒に仕事をする機会が増えるはずだから、ちゃんとご挨拶しておいてね。」 ジュンが、倉木に紹介された美緒というモデルに視線を向けた。横にいる二人のモデルと違い、彼女の顔にはわざとらしく作られた笑みが浮かんでいなかった。 それどころか、まるでなにかに魅入られでもしたかのように、瞳を真っ直ぐジュンに向け、赤ワインの入ったグラスを右手に持ったまま、突然、体がフリーズしたかのように突っ立っていた。グラスの中の赤ワインが、美緒の手の振るえと連動して揺れていた。 ジュンは、新人モデルの美緒が緊張しているのだと思い、にっこり微笑みながら声をかけた。 「スタジオMの中村(ナカムラ)旬(ジュン)です。よろしく。」 美緒は瞬きもせず、ジュンを凝視したまま、まだ固まっていた。 倉木が顔を横にして、美緒の顔を怪訝そうに見上げた。他の二人のモデルも、美緒の顔を覗き込んだ。 「美緒ちゃん・・・ちょっと、美緒・・・」 倉木が、美緒の左腕を掴んで揺すった。と同時に、美緒の右手にあったワイングラスが床に落ちて割れた。 「キャッ!」と小さく悲鳴をあげ、美緒の横にいた二人のモデルが同時に、ミュールを履いた片足を折り曲げて後ろに飛び退いた。 「ど~したの?・・・美緒ちゃん。」 「あっ・・・いえ・・・ごめんなさい。」 割れたグラスの音と、二人の先輩モデルの小さな悲鳴に、美緒がようやく我に返って倉木の問いかけに反応した。 慌てながら両膝を綺麗に揃えて斜めに折り曲げ、割れたグラスを拾おうとしゃがみ込んだ。 「あっ、お客様。危ないですので、私どもが片付けさせていただきます。」 近くにいたレストランの従業員の男がすぐに駆けつけ、美緒を制止した。 「ごめんなさい・・・」 しゃがみ込んだまま、美緒は従業員の男に謝った。従業員の男は美緒に向かってにっこり微笑むと、すぐにその場から離れ、別の従業員の女性に向かって何かを指示した。 美緒がゆっくりと立ち上がる。視線が、すぐにまたジュンに向けられていた。 ジュンは、美緒の足元を見ていた。七分丈ほどに裾を折られた細身のジーンズから出ているミュールを履いた美緒の透き通るほどに真っ白な素足が、飛び散った赤ワインで濡れていた。 ジーンズの後ろポケットからハンカチを取り出しながら、ジュンが美緒の足下にしゃがみ込む。 「ちょっとミュールを脱いで、足を上げててくれる?」 ジュンが、美緒の顔を見上げた。 「あの・・・大丈夫ですから・・・」 「いいからいいから・・すぐ済んじゃうから。倉木さん、ちょっと、彼女を支えていて頂けますか?」 足を引こうとした美緒の左腕を、倉木がそっと掴んだ。 「ごめんなさいね、ジュンちゃん。」 「いいえ、どういたしまして。」 ジュンが、美緒の足下を見たまま倉木に言った。 「ごめんね、ちょっと足に触れるよ。」 ジュンはそう断って美緒の足首を掴んで持ち上げると、その足からゆっくりとミュールを抜き取った。 ジュンに触れられて、美緒の全身に痺れるような震えが走った。 その震えを、ジュンや周囲の者に悟られまいと、美緒は体を強張らせながら懸命に耐えた。美緒の瞳がうっすらと閉じ、眉間に小さな縦皺が浮かぶ。 ジュンが美緒の素足をハンカチで拭いていると、さっきの従業員の男が傍らにやって来てジュンに言った。 「お客様、どうぞ、こちらをお使いください。」 彼も、美緒の素足が飛び散ったワインで濡れているのに気付いていたのだろう。差し出された手には、固く絞られた濡れタオルが握られていた。 「ありがとう。じゃぁ、使わせてもらうね。」 ジュンは差し出された濡れタオルを広げて折りたたむと、何度か折り返しながら、美緒の素足とミュールからワインを拭き取った。 ジュンの手が自分の足に触れている間中、止まる事なく重なりながら何度も全身に走る痺れるような震えに、美緒は懸命に耐えていた。 「これで、大丈夫かな?」 ジュンが美緒の顔を見上げた。 「あっ、はい・・・ありがとうございました。」 小さく肩で息をしながら、美緒はジュンに礼を言った。体の中では、まだ痺れるような震えの余韻が続いていた。 「あぁ~、なんかいいなぁ~。あたしも、ジュンちゃんに拭いてほしいぃ~。」 ジュンが立ち上がると、モデルの一人がニヤニヤしながらジュンと美緒をからかった。 「わたしもぉ~。」 もう一人のモデルも、そう言ってわざとらしく体をくねらした。 「もう、ちょっと、あなた達・・・」 倉木が二人のモデルを窘めた。二人のモデルは同時に「ペロッ」と舌を出して顔を見合わせると、互いの腕を絡ませて寄り添いながら笑い出した。 「まったく、この娘達ったら・・・ごめんなさいね、ジュンちゃん。」 ジュンは何も言わずに二人のモデルの方を見て、口元にはにかんだ笑みを浮かべた。 「あの・・・そのハンカチ、私、綺麗にして返します。」 美緒が、ジュンの眼を見つめながら言った。 「ああ、これ・・・別にいいよ、高いものでもないし。」 ジュンが、手に持ったハンカチをチラッと見て言った。 「気にしないでいいよ。」 ジュンは、すぐに美緒の顔に視線を戻した。 長い睫毛を纏った丸くクリッとしてどちらかと言えば幼げな美緒の瞳が、相変わらずじっと自分を見つめていた。その瞳に浮かぶ色は、明らかに他のモデル達と違っていた。 好奇や計算、そして野心を秘めた色ではない。どこか儚く、喜びと、優しさ、さらには哀しみまでが混在しているかような、不思議な色を放つ瞳だった。 そのような不思議な色を帯びた瞳になど、ジュンは今までに一度も出会った事はなかった。 ジュンは、自分の意識がその瞳に吸い込まれるような感覚を憶えた。なぜか、美緒の瞳から視線を逸らす事ができなかった。 ジュンの胸の中に動揺が走った。 <なんだろう?・・・彼女に感じる、この逃れられない気持ちは・・・> 「ジュンさん、喰わないんっすか?」 ジュンの背後でしたその声に、ようやくジュンの意識と視線が美緒から離れた。振り返ると、後輩の拓哉が、料理の盛られた皿を両手に持って立っている。 「これ、美味いっすよ。ジュンさんの分も、持ってきましたから。」 拓哉が、ジュンに料理の盛られた皿を一つ差し出した。 「ああ、ありがとう。」 ジュンが皿を受け取る。いつのまにかレストランの女性従業員が、床の上の割れたグラスを片付けに来ているのにジュンは気付いた。 「あっ、倉木さん、こんにちは。いらしてたんですね。」 拓哉が倉木に気付き、ペコリと頭を下げる。 「拓哉君も、お疲れ様。あら?・・・なんか、顔つきが変わってきたんじゃない?自信がついてきたのかしら?」 倉木が、笑いながら拓哉をからかった。まだ若く有益性も確信されていない拓哉の敬称は「~君」だった。 「俺なんか、全然、まだまだっすよ。今日も仕事が遅いって、うちのオーナーに怒られちゃいました。ジュンさんが助けてくれなかったら、ちょっとヤバかったっす。」 拓哉は、顔をしかめながら頭を掻いた。 「恭ちゃんだって、駆出しの頃はそんなもんだったわよ。だから、拓哉君だってきっと大丈夫よ。頑張りなさいね。」 そうなのだ、倉木は、オーナーの田野倉と同じ年齢で旧知の仲であり、田野倉の若い時分をよく知っているらしい。 「ありがとうございます!頑張ります!」 倉木にそう言って、拓哉がニヤリと笑った。 オーナーである田野倉の駆出しの頃が、今の自分と大して変わらなかったと聞いて「なぁ~んだ・・」とでも思ったのであろう。拓哉が、したり顔を見せていた。 「じゃ、またね、ジュンちゃん、拓哉君。」 倉木はそう言って、美緒達三人のモデルを促してその場から離れた。 ジュンの視線は、まだ美緒の後姿を追っていた。美緒が振り返ってジュンを見た。二人の視線が絡まった。 「ジュンさん、彼女、いいっすね。リハーサルの時からそう思ってたんっすよ。彼女、きっとブレイクしますよ。」 拓哉もまた、美緒の姿を眼で追っていた。 「ああ。」 ジュンは気のない返事をした。妙な気分だった。理由がわからぬままに、無償に美緒のことが気になって仕方ない。 そんな自分が、ジュン自身、不思議でならなかった。
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