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動き出した「時」
◆ 動き出した「時」◆
ジュン達が打ち上げのパーティー会場であるレストランに入ってから、ちょうど1時間が経過していた。パーティーの主役であるデザイナーから改めて謝辞を受け、ちょっとした会話を終えて、一人でいたジュンの傍へ拓哉が近づいて来て言った。
「ジュンさん、これからみんなで遊びに行きますけど、ジュンさんはどうしますか?」
「そうだな、いいよ、俺も付き合うよ。」
ジュンが拓哉にそう言った後すぐ、ジュンの背後で女性の声がした。
「あの・・・」
その声に、ジュンが振り返る。美緒が、一人で立っていた。
「さっきは、ありがとうございました。」
美緒が、ぺこりとジュンに向かって頭を下げた。
「あの・・・もしご迷惑じゃなかったら、この後、少しお時間をいただきたいのですが・・・仕事じゃなくて・・・その・・・個人的に・・ジュンさんとお話がしたいんですが・・・何か、ご予定がおありですか?」
言葉は遠慮気味だったが、真剣でまっすぐな美緒の視線がジュンに向けられていた。その美緒の申し出に、ジュンは少し驚いたが、同時に嬉しくもあった。
「いや、構わないけど・・・」
美緒から視線を逸らさず、ジュンが口ごもった。
「いいっすよ、ジュンさん。みんなには、俺から上手く言っときますから。」
拓哉が、気を利かせたつもりでニヤニヤと笑いながらジュンに小声で囁いた。きっとすでに、頭の中では勝手な想像が進んでいるのだろう。
だが、そんな事は今はどうでもよかった。ジュンの意識と視線は、美緒の姿を再び捉えた瞬間から彼女だけに向けられていた。いや、囚われてしまっていたと言ったほうが正しかった。
「じゃあ、俺、もう行きますね。」
拓哉が、そう言ってその場から立ち去った。
「ごめんなさい。もしかして、この後、何かご予定があったのでは・・・」
「いや、いいんだ。」
その言葉に、美緒がジュンの前で初めて笑顔を見せた。とても柔らかな笑顔だった。ジュンも思わず微笑んでいた。
「大丈夫・・・なんですか?」
「え?何が?」
「彼が、みんなに変な風にバラしちゃったら・・・」
「あいつなら、大丈夫さ。良い後輩でね、そういう所は気が利いてるんだ。」
「良かった。」
そう呟いて微笑んだ美緒の口元から、真っ白な歯が零れた。
「ジュン・・・いえ、あの、中村さんも、驚いたんじゃないですか?」
「ん?何を?」
「その・・・さっき、初めて会ったばかりなのに・・・」
美緒はそこまで言うと、急に口ごもった。だが、視線はじっとジュンに向けられたままだった。
「確かに・・・ちょっと驚いたけど、でも・・・」
ジュンはそこで言葉を止めた。まだ自分の中に湧き起きている感情が自分自身でも整理できていなかったし、さっきからずっと感じ続けている初めて経験する得体の知れぬ感覚に、ジュンはその先の言葉を口にするのを戸惑い、躊躇った。
何故、さっき出会ったばかりの美緒の事がこんなにも気になって仕方ないのか?・・・美緒へと自分の意識を向かわせている抵抗不能な力はなんなのか?・・・混乱していながらも、どこかすでにそれを受け入れているような、この矛盾する不思議な感覚はなんなのか?・・・ジュンの理性は、感情と感覚に翻弄されていた。
それが恋に堕ちたという事だと言われたら、そうなのかもしれない。だが、何かが引っかかる。何故かはわからないが、ただそれだけが理由ではないような気がしてしょうがなかった。
もう少し美緒と一緒にいて、彼女の姿を眺め、言葉を交わし重ねたら、その理由がなんなのかがわかるのだろうか?美緒を見つめながら、ジュンはそう考えていた。
「でも・・・なんですか?」
美緒がジュンを見つめたまま、小首をかしげて訊ねた。
「いや、いいんだ・・・なんでもない・・・」
美緒が一瞬、怪訝そうな顔をした。
「よかったら、ここから出ない?」
ジュンが美緒に言った。美緒が、キョトンという顔をした。
「いや、その・・・変な意味じゃなくて・・・どこか他の店へ場所を変えようかと・・・」
ジュンが慌てて弁解した。美緒が可笑しそうに笑い出した。
「いえ、実は、私もそう思ってたんです。」
美緒が嬉しそうに言った。
「なんだ・・・一瞬、誤解されたかな?と思ったよ。」
二人が、互いの顔を見合いながら同時に笑い出した。
「でも、この髪とメイクじゃ。」
確かに、ワッフルと逆毛で大きく膨らまされた美緒の髪と、上下に思いっきりアイラインとシャドーをいれて強めの印象にメイクアップされた顔は、コレクションのモデルそのものだった。
「一度、うちの青山のサロンに寄ろうか?直してあげるよ。タクシーで行ったら大丈夫でしょ。」
ジュンが美緒に提案した。
「はい。」
美緒がコクンと頷く。
「じゃあ私、社長に、先に帰ると伝えて来ます。」
「そうだね。じゃあ、僕は先に外に出て待ってるから。」
「はい。」
美緒が、その場から離れて人込みの中に消えた。視界から美緒が消えてから、ジュンはゆっくりと出口へ向かった。
外は、夕刻の色から夜の色へと彩を移し始めていた。だが辺りに漂う空気は、まだ日中の喧騒の余韻を残している。
ジュンは空を見上げた。濃い茜色と紫紺、そして群青が交じり合った空が見えた。これから始まる夜がどんな夜になるのか、ジュンは空を見ながらぼんやりと考えていた。
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