第一章 愛しき者  時を越えて

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第一章 愛しき者  時を越えて

第一章 愛しき者 ◆ 時を越えて ◆  時折、微かに湿り気を帯びた風が柔らかく肌を撫で、すぐ近くまで来ている夏の匂いを置いて去って行く。月が浮かぶ空に雲はなく、頭上の闇の中には、月光と、満天に広がる星々の煌めきがあった。 遥かな時を越えて届く無数の星の煌めきの下、移ろう季節を風に感じる夜の中を、ジュンと美緒は歩いていた。 ジュンにとって、美緒は実に不思議な女性だった。彼女とは今日初めて出会ったというのに、なぜかそんな気がしなかった。 国立代々木競技場第一体育館横の石畳の上を、少し酒に酔って危なげな足取りで歩く美緒の後姿をじっと眺めながら、ジュンはそう思っていた。 「どうしたんですか?」 美緒が、その伸びやかな肢体を捻りながら振り返って言った。胸の下まであるストレートな長い黒髪が、夜の公園を吹き抜ける風に揺れている。 伸びやかな美しい肢体を反転させた美緒が、ゆっくり歩いて戻ってくる。 酔いのせいなのだろう、美緒の頬がほんのりと赤く上気し、瞳が潤んでいた。そして、その美緒の潤んだ瞳が、まっすぐにジュンを捉えていた。 ジュンは、美緒から視線を逸らす事ができなかった。いや、自分を見つめる潤んだその眼差しから逃れる事ができなかった・・と言った方が正しいかもしれない。 ファッションモデルである美緒の美しさに見惚れていた訳ではない。 美しいモデル達なら、コレクションやモード誌でモデル達のヘアーとメイクアップをこなすアーティストとしての仕事柄、これまでに数多く接してきた。 外国人のモデルであれ、日本人のモデルであれ、それこそ数え切れないほどに。 確かに、それぞれのモデル達が魅せる美しさには視線を捉われずにはいられない。しかし、だからといって、その視線を逸らす事ができなくなるほどに心を囚われた事は、ジュンはいまだかつて一度もなかった。 それぞれの美しさを纏うモデル達の一人一人と出会う度に己の心と視線を囚われていては、美しさの創造を職業とするプロとして仕事にならないのは勿論、そのモデル達自身もいまだ知らぬ、もしくは気づかぬ、彼女達に秘められた別なる美しさを引き出す事さえままならない。 美しさに囚われる者ではなく、人々の視線を捉える美しさを創り出し、憧憬の世界を現実の中に構築してみせる者・・それが、ジュンの仕事なのだ。 なのになぜか、美緒には一瞬にして心を囚われた。ほんの数時間前、初めて会ったはずの美緒の瞳に見つめられた瞬間に・・・。 理由はわからない。だが、事実として、その瞬間から一時たりとも美緒から視線を逸らす事ができない自分が存在し、美緒の眼差しが自分に向けられるや、たちまちにその視線に拘束され翻弄される自分がいた。それが、自分でも不思議でならないのだ。 ジュンのすぐ傍まで近づいた美緒が、石畳の隙間にミュールのヒールを捕られてよろめいた。ジュンが慌てて美緒を抱きかかえる。美緒は、そのままジュンに凭れかかって動かなかった。 「大丈夫?・・・」 美緒の返事はなかった。 ジュンが心配して美緒の顔を覗き込もうとすると、ジュンの首に回された美緒の細い両腕が震えた。美緒の腰と背中に回したジュンの手も、華奢な美緒の体が震えているのを感じ取っていた。 「どうしたの?大丈夫?」  美緒を抱きかかえたまま、もう一度、ジュンが訊いた。 「・・・輪廻って、信じますか?」 ジュンの肩に額をくっつけたまま、美緒が呟くようにそう言った。 「えっ?・・・輪廻?・・・」 まったく予期していなかった美緒の言葉に、ジュンは面食らった。輪廻という言葉は知ってはいたが、それについて考えた事などなかった。 「憶えて・・・ないんですね・・・」 そう言って、美緒が顔を上げた。瞳から涙が零れている。美緒がなぜ泣いているのか?その涙の理由が、ジュンにはわからなかった。 <どういう事だ?・・・> ジュンは混乱した。 <輪廻?・・・憶えてない?・・・どういう事だろう?・・・彼女にからかわれているのだろうか?・・・では、彼女のこの涙はいったい・・・> 涙を零す美緒の瞳を覗き込みながら、ジュンの頭の中を様々な疑問が駆け巡る。 「やっと、会えた・・・」 美緒が、そう呟きながらジュンの肩に頬を乗せた。 「ごめん・・・どういう事か・・・説明してくれないか・・・」  美緒の言葉と涙がもたらした混乱と動揺に、ジュンは、そう言うのが精一杯だった。 「ごめんなさい・・・気にしないで下さい。たぶん、お酒のせい・・・私、変な事言ってますよね。」  ジュンは何も言えなかった。 「ごめんなさい・・・もう少しだけ、このままでいさせてください。」 ジュンは言われたとおりに、ただ黙って美緒を抱きかかえていた。 首筋に美緒の吐息を感じる。美緒の体から放たれている芳しい香りが、ジュンを包み込んだ。 両腕にちょっと力を込めただけで簡単に折れそうな美緒の華奢な体の感触、その華奢な体の割にはふくよかで柔らかな美緒の胸の感触を、ジュンは感じ取っていた。 自分の胸の鼓動が加速して速まるのがわかった。おそらく、美緒にもそれは伝わっているだろう。ジュンは自分自身をなんとか落ち着かせようと、頭上に広がる夜の空を見上げた。 北斗の七つ星が見えた。 ふと、ジュンの脳裏に、そして全身に、奇妙な感覚が走った。いや、感覚というより、とても朧げな、微かな記憶の残像といっていいかもしれない。 <この感じは、どこかで経験した事が・・・どこでだろう?・・・>  だが、いくら考えても、ジュンには想い出せなかった。
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