一人部屋をもらう

1/1
前へ
/12ページ
次へ

一人部屋をもらう

小学高学年になり、私は一人部屋をもらった。 その部屋の隣には祖母の部屋があり、直接行き来できる引き戸がついていた。 「何時だと思ってるの。おばあちゃんを寝かせないようにしてるの?」 21時には就寝する祖母は、21時以降に私が物音を立てると引き戸を開けて文句を言った。 中学生になり、試験シーズンが近づくとこの小競り合いは多くなると思っていたが、試験勉強という大義名分があったせいか、祖母は案外何も言ってはこなかった。 朝になって、「今日も眠れなかった。」「不眠症みたい。」「病人をいたわりなさい」と言った小言を聞く程度だった。 この小康状態が崩れたのは、高校3年生の時だった。 何年にも渡る私が発する物音への不満が蓄積され、不眠症も伴って臨界点に達していたのだろう。 私は私で、のびない成績に焦りを募らせながら、それを払拭しようと受験勉強に明け暮れていた。 21時以降に物音を立てないなんてそんな悠長なことはできず、日を跨ぐ時間まで勉強することが常であった。 眠気を紛らわせるため、音楽をイアホンで聞きながら勉強する毎日。 ある日から、祖母が引き戸を開けて文句を言い始めた。 「菜緒ちゃん、お願いだから寝かせてほしいの。」 「菜緒ちゃんは、おばあちゃんがかわいそうだとは思わないの?  寝かせてあげようって優しさの欠片もない冷たい人間なのね。」 「いい加減にして。」 「採点するペンの音がうるさいの。」 「書かないと覚えられないの?」 「いつまで勉強するの。そんなにしても同じでしょう?」 毎日毎日毎日毎日、言い方を変えては私に文句を言い続けた。 祖母の文句がストレスになっていた私も、音楽をかけるのをやめ、静かに勉強するようにしたのだが、祖母にとっては人が動いている気配があるのがダメなようだった。 勉強をやめることができない私には、もうこれ以上できることはなく、ただ毎日繰り返される文句を聞きながら勉強するしかなくなっていた。 母にそのことを相談もしたが、静かに勉強すれば良いと言われ取り合ってもらえなかった。 しかし、私はもうすでにできる限り静かに勉強していた。 毎日毎日毎日毎日、夜になると繰り返される文句。 受験まであと数か月、最後の共通テスト結果が返ってきた。 志望校の合格可能性評価c。 合格ラインに達していなかった。 もっと勉強しないと第一志望に合格できない。 私のストレスも限界に達していた。 今日だけは、文句を言ってこないでくれ。 祈りながら、問題集を解いていた私の願いは届かなかった。 ガラガラと引き戸が空いて祖母がやってきた。 「あのね、光がおばあちゃんの部屋に入ってきて寝れないのよ。  いい加減にしてほしいの。」 ―光? は ? 物音じゃなくて光?   もうそんなの、勉強しようとしたらどうすることもできないじゃないか。  もしかしてこの人は、眠れない文句を、ただ私に毎日毎日ぶつけていただけなのではないか。 その文句を聞いた瞬間、今までの努力が無駄な労力だったことに、脱力した。そして沸々と笑いがこみあげてきた。 一度笑ってしまうと、笑いは止まらなくなった。 様子がおかしいことに気づいた祖母は、慌てて母を呼んできた。 相談してもいつも真剣に取り合わなかった母親が血相を変えている姿にさらに笑いがこみあげてきた。 笑いが止まらなくなった私を母は突然抱きしめた。 母はフニフニとしていて、瞬間、気持ち悪さが全身を駆け巡った。 その気持ち悪さに私は母をおもいきり突き飛ばした。 「痛い!何するのよ!笑うのをやめなさい!」 突き飛ばされた母は怒った。 私も自分の行動に驚いた。 ―こういう時、物語りだと抱きしめられると落ち着いて身を任せるものなのにな。 笑いが止まらない中、頭だけは妙に冷静にそんなことを思った。 なぜ気持ち悪いと思ってしまったのか。 抱きしめられて気づいたのだが、私は母に抱きしめられた記憶がなかった。 赤ちゃんの頃は抱きしめられていたのだろうが、記憶ができ始めた頃からは、まともにスキンシップというものをしたことがなかったのだった。 だから、抱きしめられるという慣れない行為に伴う相手の肉体の感覚が気持ち悪かったのだろう。 「(精神)病院に行きましょう。菜緒ちゃんのためなら、お母さん、恥ずかしくないから。」 母親の言葉は私にとどめを刺した。 ―恥ずかしくない? つまり精神病院に行くことは恥ずかしいってことね。  できれば行きたくないから笑い止んでくれ。そういうことね。 心底うんざりした瞬間だった。 この家族は嫌だ。このままじゃ自分の心が死んでしまう。本当にかかわりあいたくない。 その言葉で、あれほど止められなかった笑いがなぜかピタリと止まった。 「なんだ、止められるんじゃない。」 母親の捨て台詞ももうどうでもよかった。 好きなように思えば良い。 早く大人になって、関わりを最小限にしよう。 私の目的は決まった。 笑いのおさまった私を両親は病院に連れていくことはなかった。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加