現実

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現実

 事務所で仕事をしていると、窓口から「おい」と声をかけられた。席が一番近い私が、「なんでしょうか」と行くと、そこにはうちの施設に入所中の初島(はつしま)さんが杖を片手に立っていた。 「ここの料金はどうしてこんなに高いんだ」    彼は半年前に自宅で転倒して骨折し、入院生活を経て三か月前に入所してきた人で、最近よく事務所にやって来る。内容のほとんどが施設料金に対する不満だ。 「すみません。ここを経営するためにいただいているものでして」 「他にももっと安いところがあるだろう。なんで同じような価格に値下げをしないんだ」  たたき売りじゃないんだから、というツッコミはせず、愛想笑いをするしかない。ちなみに、事務所には課長も他の男性事務員もいるが誰も助けてはくれない。 「あんたなんかに言っても仕方ないがな、ここは高すぎるんだ」 「そうですね、おっしゃる通りです。でも、その分初島さんが過ごしやすいように、職員みんな頑張ってますので」 「あんたはワシになんにもしとらんじゃないか」 「……それは申し訳ないです」  普段ならこの辺で帰ってくれるのに、今日はいつになくしつこい。 「申し訳ないですじゃないだろう。しっかりしろ」  初島さんが自分の杖を床に放りなげる。そして 「ほれ、杖が落ちたぞ」 「えっと」 「あんたもワシのために頑張ってくれるんだろう。さっさと拾わんかい」  と下を指した。  いくらなんでも横暴すぎる。こんな馬鹿な要望に従いたくない。  さすがに事務所の男性陣もマズイと思ったらしくおろおろしている。が、おろおろしているだけ。  でも一介の事務員である私には断ることはできないし、言い返す度胸もない。ここは折れるしかないんだろう。    あきらめて杖を拾いに事務所から出ようとすると、 「はい、どうぞ」  と、初島さんの後ろから杖を拾い上げた人がいた。 「あ、五百蔵さん」  そこには無表情の五百蔵さんが立っていた。 「初島さん、こんなところで何してるんですか。リハビリの時間過ぎてますよ」 「おー、先生。いやな、この人に世間というものを教えてやったんだ」 「なるほど。でも、事務員さんにお金が高い安いっていっても無駄ですよ」 「そうだな、こんな人に言っても意味はないわな」  ヒヒヒと初島さんが嫌な笑い方をする。 「そうです。無駄です。なので、そんなにうちが嫌なら別のところに行った方がいいですよ」 「は?」  初島さんが間抜けな声を出す。 「ここの施設は他に比べて新しくて綺麗ですし、設備とか色々と充実してます。料金が高いのは仕方ないと思いますよ。それにここは強制収容施設とかじゃないので、無理にいてくれなくてもいいですし」 「あ、あんた! いくらワシのリハビリを担当してるとはいえ、言っていいことと悪いことがあるぞ」 「でも、ここにいる限り、僕は出来る限り初島さんをサポートします。家に帰って以前のように過ごしたいって言ってたじゃないですか。そのためにリハビリ頑張るって」 「それは、そうだが」 「お金に困ってるなら話は別ですけど、そうじゃないでしょ。昨日僕に娘さんからの差し入れだからって高級和菓子店のカステラくれようとしたじゃないですか」 「しかし先生は受け取らんかっただろう」 「利用者の方から何かをもらうは禁止されてるんで。ほら、ずっとここにいるとリハビリの時間なくなりますよ」 「そうか、わかった」  杖を持ち直した初島さんはこちらをちらりとだけ見て、五百蔵さんに付き添われて行った。  私は何も言えないまま席に着くと、 「いやぁ、今日はいつにも増して酷かったけど、五百蔵さんが来てくれてよかったね」と課長が片手を上げた。もう一人の男性事務員に関しては、こちらを見もしない。 「……課長、初島さんに対しての私の接し方、どこが駄目だったでしょうか」 「いや、小森さんは悪くないよ。なぁに、気にする必要なんてないよ。ああいう人なんだから」  と課長がへらりと笑った。 「そうですか」  私もつられて笑って見せたが、こんなときに笑う自分に嫌気がさした。
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