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#006 ナノサイズに潜む悪意 Transduction
「私、実はハジメテですの……優しくしてくださいね?」
二人っきりになってしまったのでついセオリーも魔が差してしまう。好みの男性を見るとつい揶揄いたくなってしまうのはセオリーの悪い癖だった。
暁はこの手の冗談は嫌いだったようで、セオリーは暁から痺れるような目つきで睨まれぞくぞくした。
「冗談ですわ。けど、こうして話して下さるという事は、協力者として認められたという事でよろしいのですの?」
「ああ、不本意だけどな。でもあまり時間が無い。掻い摘んで話そう。報酬の件は俺から課長に打診しておく」
暁から語られたのは先日穏田から聞かされた国際的指名手配犯についてだった。
「そいつらは香港解放戦線という組織のメンバーの一人で、四課は奴らのロシアと日本の反社会的組織との武器密売現場を抑えるために動いていた」
実際には武器ではなくプラスミドで満たされた小瓶が数百点あっただけで他に武器らしいものは一切無いという不可解な事件だったという。
香港解放戦線とは中国の香港の学生の民主化運動の総称。リーダーらしい人物がおらず、SNSなどの秘匿性の高い通信手段で呼びかけ、触発された一人一人が解放戦線を名乗る。
中国が国連に圧力をかけてテロ組織に指定させた。しかしその行為はあまりにも人権を無視しているという意見をする国も多い。
「これはまた随分、国際的に微妙な名前が出てきましたわね」
「同僚がそのプラスミドの出所を洗っている。それでDNA改竄の仮説は立てられそうか」
「そうですわね……一番考えられるのはレトロウィルスベクターですわね」
レトロウィルスベクター。広義では分子マシンの一つとされている。レトロウィルスの特性である宿主細胞のDNAへの組み込みを利用する遺伝子治療だ。
「現代遺伝子治療は合成分子機械型のマイクロマシンが開発されて以降、忌避感を示す患者も多いことなどの理由から、その治療法は次第に廃れてきました」
しかしレトロウィルスベクターのメリットもある。それはコスト面。
マイクロマシンは光、熱、pH変化、酸化還元などを行って分子合成をする必要があり、時間と労力がかかる。
レトロウィルスベクターの場合、一つのプラスミドを用いてゲノム編集を行い、パッケージング細胞で株培養すればいい。ただ――
「確かに変異体が出現する可能性は限りなくゼロですが、無いとは言い切れません。そんな事例が起きた際には重大な疾患になりかねませんし、そういった理由もあって現代の遺伝子治療はマイクロマシンが主流なのですわ。裏では製薬会社の駆け引きがあったこともありますけど……」
「つまりアンタはそのレトロウィルスベクターを使って、DNA改竄を行ったとみていると?」
セオリーは頷く。マイクロマシンは特許の関係があって、おいそれと個人が手を出せない。
レトロウィルスベクターであれば研究名目でバイオセーフティーレベルクラス2程度の設備あればどこでも作れる。
「ですが、そうなれば純粋なレトロウィルスだけを常時手に入れられる環境は――」
「この国の感染症研究所か、製薬会社、それと大学と言ったところか?」
「結構ありますわね。まさか虱潰しに回るとか言いませんわよね?」
「するかよ、そんなこと……AIに最優先ラインで都内の大学、製薬会社、研究所で不審な人物がいないか洗い出してもらう」
そういって暁が携帯端末を取り出し連絡を取ろとして、突如携帯端末が鳴り響く。
「課長だ」
「どうされたのかしら?」
直ぐ様、受信操作するとホロディスプレイに穏田の顔が映し出された。
『暁、今送った地点へ急行しろ。先日捕らえた権藤会系グループのもう一つ下部組織巧綾会の事務所が襲撃された』
息を呑む暇も惜しみ、車を走らせること20分。東京都港区赤坂に到着する。雑居ビルの一階にはブルーシートが張られ、警備用ロボットが交通整備を行っている。
「よう、来たか。暁」
「とっつぁん、ホトケは?」
(まるで刑事ロンロゴ? いや、ボンボゴだったかしら?)
はね気味の白髪のずんぐりとした体型の男性。その男の風貌からセオリーは一度だけ見た大昔のテレビミステリードラマに登場するベテラン刑事を思い出す。
「そちらさんは例の?」
「はい、初めまして、セオリー・S・マクダウェルと申します。以後お見知りおきを願いますわ」
「ああ、俺は影浦貴之だ。課長から話は聞いている。ちょっと向こうで話そう」
影浦はセオリー達を雑居ビルの人目に付かない路地裏へと連れていく。
「それで、とっつぁん。ホトケは?」
「それがな……」
突然セオリーは影浦からじろりと見られる。恐らく死体の様子を説明するのに気を使っているのだろうとセオリーは察した。
「大丈夫ですわ。慣れてますもの」
セオリーの姉は医者で検死に無理矢理付き合わされたり(本来駄目なのだが)、手伝わされたり(もっと駄目なのだが)したので慣れている。
「そうかい。ホトケは4つ、その内2つは頭を撃ち抜かれて死亡。残りの2つは何故か喉笛を食いちぎられていた。そりゃあ、酷い有様でな」
酷いという割には眉一つ変えず状況説明する影浦。それどころか内ポケットにしまったタバコを取り出して一服し始める。
「それで、とっつぁんはどう見る?」
「わからん。情報が少なすぎる。監視カメラの映像とパソコンのハードディスクの解析については木部と石寺の嬢ちゃんに任せちゃぁいるが――」
「ちょっと失礼いたしますわ。申し訳ありませんが、その食いちぎられた遺体を見せて貰う訳にはいかないのでしょうか? 私でしたら動物の歯型で大抵何の動物か分かりますわ」
影浦は唖然とした表情を見せる。実直に見えて意外にそういう表情が出来るのだとセオリーは少し新鮮な気持ちになった。
「許可は穏田課長より頂いておりますわ。ね? 暁?」
悪戯っぽい笑みを暁に向けるセオリー。
バツの悪そうに頬を掻く暁の仕草に、影浦は「まいったね。こりゃぁ」と何故か嬉しそうに薄笑いを浮かべながら、携帯端末を取り出して徐に操作し始める。
「ほら、セオリーの嬢ちゃん。これがホトケの画像だ。鑑識から拝借しておいた」
セオリーは影浦から差し出された携帯端末の画像を覗き込む。
無残な死体の映像を冷静に観察ながら、歯型の角度、抉れぐわいから顎の筋力の強さを分析していく。
(なるほど、なるほど――やはり――実に面白いですわ。こうなってこうなっているのですわね)
身振り手振りを加えてセオリーは自分の推論を重ねていく。
そして数秒後、結論を導き出した。
「これは狼の歯型ですわ。間違いありませんわ」
首の半分以上が食いちぎられているところから見て、狼は全長凡そ2メートル。さらに他の目ぼしい外傷が見当たらないところから相当訓練されていると推測出来た。
(だけど、何か引っかかるのですわ……)
しかしセオリーは妙に引っ掛かるものを感じる。いくら訓練されているとはいえ、的確に首を狙えるだろうかと、狩りの時とは違う別の殺意。しいて言うなら怨恨のようなものを歯型から感じ取った。
「鑑識官の方に調べて貰えれば、そこら中に毛が落ちている事が分かると思いますわ」
影浦は暁に鑑識へ確認してくるように指示を出す。警戒されていた暁とは違いあっさりと聞き入れてくれたのでセオリーは拍子抜けする。
「信頼してくださいますのね?」
「長いこと生きていれば、信頼に足りる人物かどうかなんて眼と雰囲気を見れば分かる」
やや肩を竦めて影浦は微笑む。
「暁は推理力はあってもまだまだ半人前だ。ぶっきらぼうなところはあるが、まぁ気を悪くしなさんな」
「気を悪くするどころが、むしろ気になって仕方がありませんわ」
セオリーの告白ともとれる大胆な発言に影浦の銜えていたタバコがぽろっと地面へ落ち、肩を震わせて笑いだす。
「そりゃあいいっ! 嬢ちゃんみたいなのが、暁に付いてやっているとこっちも安心だ」
「どうぞお任せください」
影浦は落ちたタバコを携帯灰皿に閉まい、もう一本タバコを取り出して火を付ける。
(いい上司ですわね……)
影ながら部下のフォローをする影浦の姿はセオリーは好感を覚えた。
「それで狼の件ですが、これだけの大きさであると1回の食事は10kg以上の肉が必要になりますわ」
「だとすれば、大量の肉を買い込んでいるか、盗んでいる奴がいるってこと――」
「とっつぁん、コイツの言う通り、動物の毛が落ちてやがった」
話を遮るように暁はビニールに入れられた毛をもって現れる。
(コイツ……ですって?)
話を遮られた事はどうでも良かったが、それよりもセオリーは暁の自分への呼称について一言物を申したく疼く。
「暁ったら、コイツなんて言い方。あんまりじゃありませんこと?」
「だってよ。暁、セオリー嬢ちゃんはもう仲間だ。名前で呼んでやりゃぁいいじゃねぇか」
目を吊り上げ詰め寄るセオリーに対し、暁は渋面で露骨に面倒くさそうな顔をする。
その光景にケラケラと肩を震わせて笑う影浦の携帯端末にメッセージが届く。
「おっと、課長からだ。一旦署の方に戻ってこいだとよ。セオリー嬢ちゃんもだ。暁ちゃんとエスコートして行けよ」
「ですって、よろしくお願いしますわね? 暁?」
「……」
周辺の聞き込みをしてから行くと言って、少し妙な気を回す影浦に追い払われるように、暁とセオリーは警視庁公安部へと向かった。
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