一 邂逅

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一 邂逅

 いつもと違う道を行くことにしたのは、そちらの方へ惹かれるものがあったからだ。それが何かは、隼人(はやと)もわからない。ただ注文の品を届けに行った帰りともあって肩の荷が降りたことと、いつもより早い時間に里へ戻れそうであったことは無関係ではなかった。隼人は寄り道をしたくなったのだ。問丸でひいきにしてくれる主人が握り飯を渡してくれたおかげで腹も満たされており、遠回りができる余裕があった。 (俺の勘が正しければ、こちらでまちがいない)  山の気が変わる瞬間を何と表現すればいいだろう。空気が切りかわるような境があるのは確かだ。それがいつからなのか、隼人にはわからなかった。妙にその気配に惹かれる自分がいた。 (気のせいなんかじゃない。まるでここだけ、この先だけ違う)  ふわっと包みこまれるように風が吹いた。  隼人は目をつむる。確かに何かをつかみかけた一瞬。  視界のさきに、ひとりの少女がいた。  十五か、十六か。  年のころは隼人とさほど変わらないように見える。少女は白い小袖に浅蘇芳の鮮やかな袴をはいて、長い髪を背にたらしていた。しかし隼人が息を呑んだのはべつの理由だった。少女は人の背丈ほどもある大きな筆を右手にもっていた。足元にひろげた紙の光沢に、隼人は目をみはった。 (親父さんのつくる(こうぞ)紙もたいしたものだけれど、この紙はもっと表面がきめ細かい。どうしてこんなところで)  隼人は少女を藪のなかから盗み見た。小屋が奥にひとつ見えるだけで、他に人の気配はしなかった。こんな山のなかで、まさかひとりで住んでいるのだろうか。こんなふうに、ひとり書をひろげて。それとも狐に化かされているのだろうか。  隼人が息を殺して見つめていると、さらに驚いたことに少女のもつ筆の先がみるみる青白く染まった。墨は見あたらない。水が湧きでるように内から生まれた色はうす青く、淡い光を宿している。その光が紙の上に落ちたかと思うと少女は筆をふり、その紙も青く染まる。と、浮きでるように紙の上に生じるものがあった。 (――あれは)  パキンと音がして、隼人は肩をふるわせた。よく見ようとして踏みこんだ際、足元の枝を折ってしまったのだ。ハッとした少女が手の動きをとめる。  こちらを見る。  鋭い、切るような眼差し。  それを交わすか交わさないかのところで、隼人はきびすを返して走りだした。見てはいけないものを見た気がした。あの少女は、人間だとしても普通じゃない。そんな普通ではないものが、里から数里も離れていない山のなかにいることが信じられなかった。不思議とこわくはなかった。むしろますます心惹かれる気がした。  とっさに逃げたのは、自信がなかったからだ。摘めばしぼんでしまう花のように、つかまえれば死んでしまう蝶のように、手で触れてはいけないような気がした。むりに近づけば消えてしまうような、そんな気がしたのだ。  山のなかをやみくもに走ると大抵のものは道に迷うが、隼人はいつもそうならないだけの勘と足を持っていた。こちらだろうと見当をつけていけば、だいたいそのような道にでることができる。紙すき屋の主人も、その点では隼人を買ってくれた。隼人が里に流れついたとき人買いに売ることもできただろうに、親父さんは家に置いてくれた。隼人は今でもそのことで恩義を感じていたが、同時に自分がどこまでもよそ者であるという意識はついてまわった。 隼人は、いつもと違う山の気に自分が惹かれる理由もわかっていた。 (俺が里の人々と違うことを、俺自身が知っているからだ。だからいつもと違う気配に惹かれたんだ)  しかし隼人の見つけたものは、隼人の予想を上まわるものだった。あの少女は隼人より孤立して見えた。あの山に人知れず、自分と同じくらいの少女が住んでいたとは。あんなに見事な紙を隼人は見たことがなかった。そしてあの、少女がふるった筆。  紙の上から現れ出ようとしたそれを、隼人は直視することができなかった。見られたら呑まれてしまいそうだった。なめらかに動く背のうろこが光っていた。少女はあの筆で龍を書いたのだ。文字を書いたのか、絵を描いたのかはわからない。それを見極める暇もないほどの間に、それは紙の上から、あと少しで出現するところだった。  隼人にはそう見えた。 (あれは夢だろうか。それとも幻だろうか)  山の主が見せるという怪奇や災いを、隼人も知らないわけではない。山にはひとつひとつ主がいて、その力は神に近く時には気まぐれに人を殺すこともある。でも、あの少女はまたそれとは別のものに見えた。あの力がどうあれ、少女は隼人と変わらぬ一人の人間に近いような気がしたのだ。たとえ異様ではあっても。  あの眼差しに湛えられた光には、ひとつの感情がこめられていた。それは荒野のなかにずっとひとりで立ち続けるのにも似た、隼人のよく知っているものだった。少なくとも隼人には、そのように感じられたのだ。
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