一 邂逅

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***  里に戻るころには日が暮れていた。思ったより時間がかかってしまったのだ。使いを頼んだ主人――助久(すけひさ)は、隼人が現れると、年齢に見合う渋面をつくって言った。 「どうした、めずらしく。ずいぶんかかったな。寄り道でもしたのか」  内心図星を指されたことに肝が冷えたが、隼人は何の素振りも見せないようにつとめた。  隼人がいつまでも里になじもうとしないのを、この紙すき屋の主人は見抜いており、それを気にしていることを薄々ながら隼人も知っていた。それに今日見たものは軽々しく人に話せるものではない。 「ごめん。ちょっと出るのが遅くなったんだ」  隼人は助久の前に座ると、対価として預かった包みを(ふところ)から出して差しだした。  助久は検分するように隼人を見る。里では気難しいと評判の助久だが、この主人が実はやさしい気性の持ち主であることを隼人は知っていた。連れ合いを病で亡くし、子どもをもたない彼は確かに一見気難しそうに見えるのだが、それは早くに身内を亡くしたためでもあった。隼人がそれ以上何も話さないのを見て助久は言った。 「今後は申の刻までには帰ってこい。明日の晩は、嬥歌(かがい)の祭りだろう。俺は寄合いの集まりがあるからそっちに行くが、お前ももうそろそろ一人前だ。歌は交わさずとも、品ものぐらいは用意しておいたほうがいい」 (そうか――明日の晩は、嬥歌だった)  年頃の男女が歌を懸けあい、将来の約束をするのにも等しい儀式。  一人の男として、里の少女を勝ちとるための祭りだ。祝言はまだ先でも、歌を交わせばそれが約束になる。ただ今は歌よりも、首飾りや挿し櫛など、贈りものを渡す方が多かった。隼人はいつも助久に伴って、寄合いの方に顔をだしていた。そのほうが気楽だし、ふだんは口にできない獣の肉や、果実酒を舐めさせてもらうこともあった。  嬥歌は、まだ自分には遠いできごとだと思っていた。でも、この仕事と家以外には何ももたない主人が、隼人にそれを望むのは当然に思えた。 (俺はそのことにどこかで気づいていて、今まで見てみぬふりをしていたんだ)  ぼうぜんとしている隼人を見て、助久は半ばあきれるように言った。 「今の今までそれを忘れていたのか。里の男衆は誰に品を贈ろうか、ひと月も前から牽制しあっているというのに。俺がお前をわざわざ市へ使いにだすのは、そうすれば何か見つくろってくると思ったからだ。渡した駄賃もいつもより多かっただろう」  駄賃のことは隼人も気づいていた。嬥歌の祭りがもうすぐあるということも。でもそれが何を意味するのか、隼人は深く考えていなかった。今まで通りずっと、ただの紙すきの主人の使いとして働き続けることはできないのだ。  隼人は大人になる。大人になるということは、この里では、立派に働いて一人前になり、所帯をもつということと決まっていた。隼人をひきとってくれた助久がそれを望むなら、隼人も一人の男としてふるまうべきときが差し迫っているのだ。それは、この里にずっと定住する未来を示している。その決心が未だつかないことを悟って、隼人は急に息苦しくなった。 「そういうことにはてんで疎いからな。困ったものだ。そんなことでは先を越されてしまうぞ」  助久は奥の戸棚から何か取りだし、手を開いてみせた。  灯盞(とうさん)の火影をうつして光るそれは、メノウの玉を連ねた首飾りだった。 「親父さん、これは」 「生前のもので悪いが。値打ちもんではあるよ。ずっとしまっておくには惜しい品だ。お前に何の用意もないときは、これを使ってもらおうと思っていた」  隼人は首をふって、あえぐように目の前の主人に言った。 「いいよ。こんな――大切なものだろう。俺がもらうわけにはいかないよ」  拒もうとする隼人に、助久はそれをむりやり握らせた。 「心にかかる人がいたときのためだ。お前ももう小さな子どもじゃない。贈りたい人が見つかれば、その誰かを飾る品になってくれればいいと思っていた」  結局隼人はその首飾りを受けとるしかなかった。そして自分のなかに渦まいている気持ちが、何であるのかを知って愕然とした。 (俺は、この里を出ていきたいと思ってるんだ。ここに流れついた小さなときから、ここではないどこかにたどりついてみたいと思っていた)  でもそれを実行することは、今の隼人には到底できなかった。助久の顔に泥をぬるようなものだ。里にいる年頃の少女たちを隼人はひとりも思いだすことができない。心にかかる人がいるとすれば、今日垣間見た――ひとりで筆をふるっていた少女だった。  人と違う、精霊のような気をまとった少女。 (あの子はきっと嬥歌には来ないだろう。里のものではない。里にはあんな目をした子はいなかった)  隼人はその日、夜が更けてもうまく寝つけなかった。山のなかで見た少女の姿と助久の言葉が重なり、しこりのように隼人の胸を重くしていた。
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