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言われた野草を取りに行った帰り、隼人は思いたって御影山にむかった。
今から行って申の刻までに戻ってこられるかはわからないが、本格的に紙すきの作業が始まると幾日も家を空けられなくなってしまう。普段は人の訪れが少ない工場も、楮を煮る段になると、里から手伝いに来た人の出入りが激しくなってくる。冬場にその原料を川でさらし、木槌で繊維を細かくしていくのは何週間もかかる作業であり、さすがに隼人も助久の目を盗んで外に出かけていくのは阻まれた。そうなる前に隼人はもう一度、あの少女――真尋にひと目会っておきたいと思ったのだ。
野を行く風は日ごとに冷たさを増し、里にも山おろしの風が吹くようになった。隼人は山へと続く道を歩きながら、あの日ヤスケが語ったことを反芻した。
『あの境界を、もう越えてくるな』
日が経つにつれ、カラスがそんな言葉を喋ったのが夢か幻のように思えてくる。初めて真尋を見つけたときもそう思った。とても現実のこととは思えなかった。でもそう思う一方で、あの少女の存在を、無視できないでいるのも確かだった。
あの日以来、隼人は真尋のことを誰にも話していない。隼人は自分が誰にも――助久にさえ、それを話すことがない理由に気づいていた。誰にもその存在を知られたくなかった。あれは、人の目には本来触れられないものなのだ。結界が張ってある、とヤスケは言った。初めて行ったとき、山の気が変わったように思えたのは、きっとそのせいだったのだ。空気が切りかわったかのように清澄な風が、どことも知れぬ場所から吹いていた。
隼人は以前一度訪れた場所が具体的にどこにあったのか、もう思いだすことができなかった。そこまで仔細に覚えていなかったのだ。でも、どの道を行けばいいのかはおのずと知れた。まるで行き先を告げるようにつややかな風がふき、その風穴をたどるように進めば自然と道を知ることができるのだ。
ふわっと眼前に風が吹きつけて、隼人は目をつむった。
あの日と同じ風。空気が入れかわるのを肌で感じた。
そして、次に目を開けたときには、少し離れた場所に少女が立っていた。
少女は前と同じ白い小袖に紅の袴をはき、長い髪はゆるくひとつに束ねている。あの日見た筆はたずさえていなかった。少女はハッとしたように隼人を見ると、困惑と戸惑いを浮かべたのも束の間、唇をキッとひき結んで対峙した。
「ここにはもう来るなと伝えたはずだ。なぜ再び来た」
りんと響く涼やかな声だった。
今度は隼人が困惑する番だった。ひとつめは問われても相応する理由を言えなかったためであり、ふたつめは少女が突然現れたせいだった。ここを目指して歩いてきたとはいえ、もう一度姿を見られるかどうかは、隼人自身運にまかせていたのだ。はっきりした目的といえば、この少女をもう一度目に留めるためだった。その本人は頬を紅潮させ、真っ向から拒絶の意を示している。
「会いにきたんだ。様子が気になって」
隼人は何の他意も含めずにそう言った。少女がそれを聞いてひるむのがわかった。
「ここは、そう簡単に来られる場所じゃない」
奥歯をかみしめるように、少女はそう言った。目つきが険しくなると、その容姿は隼人より大人びて見える。隼人は空気のなかに混ざる気の違いを感じとり、にらみつける少女を見返して言った。
「だろうな」
と隼人は軽くうなずいた。
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