平穏の中の黒いシミ

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平穏の中の黒いシミ

「だから! なんでわかんないのかな!」 「あんたこそ、もうちょっと頭を使え」 「アヤは頭が硬すぎるんだよ。もう少し柔らかくしたら?」 「あんたが自由すぎるんだ」  関係を元に戻したからと言って、日常が大きく変わるわけではない。今日も今日とて、会議室では二人の言い争いが繰り広げられている。  机を挟み、向かい合う二人のあいだには、火花が散っていた。とはいえなにも進歩がない、と言うわけではない。 「ここをもう少しだけ、練り直してこい。ほかは検討しておく」 「じゃあ、ここも目に留めておいて」 「わかった」  お互い、わずかながら歩み寄ることを覚えた。いまでは喧嘩抜きで、話し合えるまでに成長している。  おかげでこのところミーティングは、随分とスムーズだ。 「最近の主任は上条くんに対して、デレが増したよね」 「切れ味は相変わらずだけど、ちょっと寂しい~」 「仕事の効率は上がったので、結果オーライですよ」 「お前ら、お喋りしてないで報告しろ!」  部署の雰囲気も相変わらずだが、のんきさが増した。それプラス、礼斗と直輝をからかう回数が増えている。  仕事上では二人の関係に大きく変化がないので、突っ込まれることはないが、どこまで気づいているのか。少しばかり礼斗はヒヤヒヤしている。 「えーっと、先日の案件ですが。デモサイトができましたぁ。これが、あっ、間違えた」 『……主任、大丈夫ですかぁ』 『あ~あ、潰れちゃった』 『君たちが飲ませるからですよ』  橋本がタブレットを操作すると、ふいに話し声が聞こえてきた。それは彼女と、平塚、小山の声だ。それともう一つ、聞き馴染みのない声。 『うるさい、酔ってない』  礼斗が画面を覗き込むと、テーブルに突っ伏す自分の姿が見えた。だがそんな場面はまったく記憶にない。  ということは酔っ払って、完全に落ちている証拠だ。  画面から見える背景は信昭の店に違いないと思う。この三人と一緒にあそこにいたのは、直輝と喧嘩した日しかない。  そこまで考え、カウンターで目が覚めた時に、なにかを構えられていたことを思い出す。あれはスマートフォン、だったのか。  無防備な自分を録画されている事実に、顔が燃えるように熱くなる。とっさに礼斗は、動画を止めようと手を伸ばした。しかしその手は次の言葉で止まる。 『主任は、上条くん好きですかぁ?』 『聞いちゃう、それ?』 『聞かなくてもわかりますよね』 『お前ら、ごちゃごちゃうるさい。上条? 直輝がなんだよ。……好きで悪いか。好きだよ。ずっと好きだった。なのにあいつが、簡単に手を離すから』  ぐずぐずと泣きながら、好きだ好きだと繰り返す姿に、礼斗は恥ずかしさを通り越して、気が遠くなりそうなひどいめまいに襲われる。  いかに直輝が好きかを、ことさら力説する自分が、自分でないように思えた。  もしかしてこの調子で、直輝にも告白していたのだろうか。  そういえば以前信昭に、お前は泣き上戸なところがある。と言われたことがあった。 「あっ、上条くん!」  あ然と流れていく動画を見ていると、ふいに手が伸びてきて、それを停止した。さらにはなんの躊躇もなく、データを削除する。 「きゃー! お宝動画が! うそっ、ほんとに消しちゃった?」 「橋本さん、わざと?」 「ええ? 滅相もない!」 「これはアヤには見せない約束だよね?」 「ちょ、ちょっと手が滑って、ごめんなさーい!」  焦ったように、机の上にあるタブレットを引き寄せようとする橋本だが、笑みを浮かべた直輝が片手で押し止めるように遮る。  しまいには端末を取り上げて、勝手に操作し始めた。 「ああっ、待って! 上条くん! 主任フォルダを削除しないでぇ。私たちのオアシス~!」 「このあいだは許したけど。これからはもう盗み撮りとか、絶対に許さないから」 「わぁーん、ごめんなさーい」 「ブラック上条降臨」 「いつも笑ってる人が凄むと怖いですね」  直輝にタブレットを返却された橋本は、見るからに気落ちした様子で肩を落とす。  そんな彼らのやり取りに、いままで黙っていた礼斗が、両手で大きな音を立てた。机を叩いた音が響いて、その場にいる全員がビクリと跳ね上がる。 「貴様ら、人のプライベートをなんだと思ってる。いまの話を墓場まで持っていかなかったら、全員ぶちのめす」 「うわぁ、主任、ご乱心」 「座れ、ミーティングの続きだ」  地を這うような声に、部下たちは揃って背筋を伸ばす。そのあとはいつも以上に手厳しい礼斗に、全員ズバズバと、容赦なく切り伏せられたのは言うまでもない。  普段よりも長くなったミーティングが終わると、やけに神経がすり減ったように感じた。席に戻って礼斗は、椅子に身体を投げ出すように座る。 「畜生、あいつら」  机に肘をついてうな垂れると、重たい息が吐き出された。あんなところで、自分の気持ちが晒されるとは、思いも寄らない。  しかも相手が直輝、男であることすら突っ込まれず、最終的にはなぜだか祝福ムードで、逆に慄かされる。いつもであれば三人が、冗談を言って茶々を入れるのに、それすらなく胃が痛くなった。 「おーい、西崎、ちょっといいか」 「あ、はい」  しばらく黙って俯いていると、上司に声をかけられる。賑やかな面々とは違って、いつものんびりとした雰囲気の部長だが、今日は少し神妙な面持ち。 「お前に全部任せきりで、負担をかけているか?」 「いえ、そんなことはないです」 「そうか。六月に辞めた加藤さんの穴だけどな」 「上条、よくやってくれてますよ」 「そのことだが、新しい社員が見つかりそうだ。反りが合わないと、なにかと大変だろう? すぐに入れるからな」 「えっ? いや」  少し前までは、確かに二人が犬猿の仲だと噂になっていた。物怖じしない直輝と、普段からなにかと話題に上がる礼斗なので、余計に目立っていたのだろう。  上司の耳に入っていてもおかしくないが、ここに来てそんなことになるとは思わなかった。 「大丈夫だ。上条くんも戻ったら、大きなプロジェクトに加わるみたいでな。栄転するらしい」 「栄転?」  思いもよらない言葉のせいで、にこにこと笑う部長の声が遠くなって、続く言葉が耳に入ってこない。  ようやく元通りになったのに、また離れるのかと思うと、鉛を乗せられたような気分になった。  だが元の会社に戻るくらいなら、なんてことはない。この会社から直輝の家は近いし、彼の会社はそれほど遠くなかったはずだ。  そう思うのに、ひどく嫌な予感がする。 「上条は元の職場に、戻るんですよね?」 「いや、引き抜かれるらしいぞ。新しい土地でスタートするのは大変だろうが、上条くんはコミュニケーション能力が高いからな。どこへ行ってもうまくやるだろう」 「そう、ですか」  住む場所が変わるだけ、少しくらい遠くなったからと言って、地球の裏側に行くわけでもない。会えなくなるほどの距離ではないだろう。  けれど自分に言い聞かせてみても、なんの気兼ねもなく毎日会えていた、その日常がなくなることが、耐えがたく思えた。  さらにはどうして自分に、こんな大事なことを話してくれなかったのだろうと、そんな気持ちが湧く。これからは傍にいる――あれは単なる甘言だったのだろうか。  わからないことだらけで、礼斗はまた直輝を勘ぐってしまいそうになった。
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