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もしかして未練?
「ちょっと来い」
「アヤ?」
怪訝そうな直輝のことは振り向かずに、礼斗はプリンターで出力されたものを、さっと取り上げる。そして先に立って、空いた会議室に移動した。
黙ってついてきた直輝が、扉を閉めたのを確認すると、今度は紙の束で彼の額を叩く。
「なに?」
「なにじゃない。あんたさ、どういうつもりだよ? そうやって馴れ馴れしくされると、変な噂が立つだろう」
「変な噂ってなんだよ」
怒ったように眉をひそめた直輝に、言葉が詰まる。あの時の自分たちの関係が、変なことであると括られるのが、腹立たしく思ったのだろうか。
いまもこうして、なにかと突っかかってくるのは、もしかして未練があるとか。
「だから、その、……いや、そんなことよりこれを見ろ」
聞いてみたい気持ちが湧いたけれど、すぐさまそれを引っ込めて、代わりに礼斗は紙を突き出した。
「アヤ、話の途中じゃないの?」
「いいからっ」
「……あれ、これ。直したんだ」
「ああ、あのままじゃ埒があかないからな」
「そっか」
手にしたものに視線を落とし、直輝はそれに目を通す。真剣な横顔に、次はなにを言われるだろうと、そわそわする。
それでも礼斗が黙って言葉を待つと、小さく彼は頷いた。
「さすがアヤだね」
「え?」
「すごくいい感じにまとまってるよ。いままでの雰囲気から逸脱しすぎない、絶妙なラインだね」
「そ、そうか」
素直に褒められることは、まったく想定していなかった。しかも手放しに近い状態で。
くすぐったい感覚に、礼斗の頬が徐々に赤く染まる。
だがその感情を知られるのが気恥ずかしくて、とっさに一歩後ろへ下がり、視線をそらした。けれど伸びてきた手が頬に触れ、それ以上逃げ出すことができなくなる。
「いつも言い過ぎてごめんね。アヤならできるだろうって思うから、余計にムキになっちゃって」
「そういう、ことか。いつも食ってかかるから、てっきり」
ことごとく気が合わないから、八つ当たりされているのかと思っていた。相性云々を通り越し、人として反りが合わないのかと。
しかしいつも最後に謝るのは、直輝だったことにも気づく。毎度毎度、頑として礼斗が折れないから、彼が角を丸く収めてくれていたのだろう。
「こっちこそ、いつも、悪い」
「え? アヤ?」
「も、申し訳ないとは、思ってるんだよ、こっちだって、だから」
「ほんと、アヤってさ」
そらしていた視線を戻すのと同時、ふいに腕をとられて引き寄せられる。さらには驚く間もなく、唇を塞がれた。
やんわりと優しく、ついばむようにされて、胸の音がとくんと音を立てた気がする。けれどそんな小さな音より、目の前に迫った顔に息を飲む。
黙っていると、舌で先を請うように唇を舐められ、礼斗は無意識に口を開いてしまった。
「ぅんっ……ぁっ」
口の中をたっぷりと撫でられると、ざわりとした感覚が肌に広がる。気持ちがいいような、くすぐったいような、どちらともつかない感覚。
首をすぼめて身をよじる礼斗を見下ろし、直輝は指先で敏感になった肌を撫でた。首筋を伝うその感触だけでざわつきが増して、ゾクゾクとする。
「んっ、なお、き」
「……アヤ、昨日言ったこと、覚えてる?」
「な、に?」
「昨日アヤは」
じっと見つめられて、瞳を閉じられない。いまいる場所を忘れて、目の前の彼に溺れそうになる。
けれど礼斗が手を伸ばしかけた、その瞬間、扉をノックする音が聞こえた。
「主任、ミーティング、そろそろ始めたいんですけど、いいですか?」
現実に引き戻す声。我に返り、礼斗がビクリと肩を震わせると、それに気づいたのか、直輝との距離がわずかに開く。
名残惜しげにそっと唇を指先で拭われれば、なぜだか瞳にじわりと涙が浮かんだ。だがとっさに礼斗は涙を拭い、直輝に背を向ける。
「ミーティングを始めましょうって」
なにもなかったみたいな声で、応対する直輝は、いつものなつこい笑顔を浮かべているのだろう。まだ自分は再会して、一度しか見ていないのに。
そんな嫉妬に似た感情が湧いて、礼斗はハッとする。思ったよりも、自分の中に未練が残っていた。
「はあ」
気づいたところでどうする?
少しばかり向こうに脈がありそうでも、またいがみ合いの喧嘩になるのは、ごめんだ。そんな毎日に戻るくらいなら、寄りなんて戻したくない。
机に両手をついて顔を落とすと、礼斗は再び大きなため息を吐き出した。
この二人の関係を修復できるかは、自分次第なのかもしれない。キレやすい礼斗に比べて、いまの直輝は年相応の落ち着きを、しっかりと身につけているように思える。
言動行動、それを改めれば――
「素直に、意固地にならない、か? いやいや、ないない。なんで俺が、そこまでする必要があるんだ」
そもそも本当に直輝に、気があるかどうかもわからない。キスをしたのが、気まぐれだったらどうする?
なにもわからない状態で、感情に火を付けられるほど、もう若くない。しかも一度失敗した相手だ。
慎重になるなと言うほうが無理だろう。いつもだったら、言い合いの喧嘩程度で済んだだろう一言で、二人の関係にヒビが入った。
この先も同じことをする可能性が、ありすぎる。
「いや、待てよ。それじゃあ、まるで俺が成長していないみたいじゃないか」
「主任、なにか言いました?」
「なにも言ってない!」
俯いた顔を覗き込まれて、とっさに礼斗は眉間に力を入れる。普段通りの厳めしい顔に、部下たちは苦笑いを浮かべた。
「上条くんと、仲良くできそうなのかと思ったのに」
「もうちょっと仲良くお願いしますよ。大学時代のお友達なんでしょう?」
「主任はツンデレってやつですねぇ」
「うるさい! さっさと座れ」
わざとらしく机を片手で叩くけれど、彼らはまったく堪えた様子を見せない。それどころか上司がカリカリしているのに、毎日平和だ。
ビクビクされるよりマシだと思うが、このポジティブさはどこから来るのか、不思議でならない。部署にいる面々は、どうしてか皆クセが強すぎる。
その中でもサバサバ系女子の平塚に、舌っ足らずな喋りが特徴の妹系女子の橋本。物腰柔らかな癒やし系男子、小山。
彼らは礼斗が配属された時から在籍しているが、とりわけ存在感があった。
言うことを聞かない問題児、と言うわけではないけれど。時折、説教を右から左へ聞き流していることもあれば、てこでも動かない時もある。
この部署は礼斗を含め社員全員、年齢が近いため、舐められているのかと思いもしたが、それとは違うようだ。しかしいまは考えることでもないと、礼斗はどっかりと椅子に腰かけた。
「なんだか俺だけが振り回されている気がする」
先ほど唇に触れた感触が残っていて、思わず指先で触れたら正面から視線が突き刺さる。視線につられて顔を上げると、直輝とまっすぐに目が合った。
こちらの様子を窺うような眼差しに、言葉が見つからず礼斗はあからさまに顔を背けてしまった。
「調子が狂うな」
直輝の家に泊まったことも、キスされた意味も、答えがなにも見えなくて、ひどくもどかしい。それでも頭を切り替えると、礼斗はいつもの仕事の顔に戻った。
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