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土曜の夕方はたいてい恋人が家にいる。築15年の1LDKは、彼女の思うままに作り替えられて、さまざまな仕掛けが施される。私はそのときの自宅をビーバーの巣と呼んでいる。
巣に帰る私は、ある程度の覚悟を決めて自宅の扉を開けなければならない。毎回、かならず謎めいたイベントが起こるからだ。
今日は玄関を開けると、スモークがもうもうと外へ流れ出た。白いもやの奥に見える廊下には、懐中電灯のスポットライトが二つ設えてあり、光芒の交叉点にはポーズをとる「オペラ座の怪人」がいた。
顔の形をかたどった白いマスクを付け、シルクハットをかぶり、黒のタキシードに身を包んで、怪人は玄関の私を見下ろしていた。やたらと背が高いのは、バスチェアの上に立っているからだ。マスクの額部分には、緑色のマジックでGrata Retroと書かれている。
「ファ、ファントム!?」
私は予想外の事態に驚きながらも、すぐにオペラ座の怪人を連想して主人公の異名を口にした。われながらすばらしい機転だったと思う。
私の叫びとともに、怪人はマントをひるがえして部屋の奥へと駆け出していった。
「ちょっ、土足!」
ファントムは黒い革靴をはいたまま、寝室へ飛び込んだ。ベッドを好まない私は、床に直接マットを置いて寝具を敷いている。あの勢いで突っ込めば、きっとお気に入りの羽毛布団を革靴で踏みつけることになるだろう。
私は焦ったが、自分が土足で追いかけたら本末転倒である。丁寧に靴を脱いで、怪人の跡をたどった。
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