母の夫

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 天涯孤独なんです、と、その男の子は言った。だから挨拶するような家族はいない、ということらしい。  男の子というには少し年がいっているかもしれない。二十三歳だという。施設育ちで、高校を卒業して、植木屋に就職して、今もそこで働いている。立派な成人男性なのだが、しかし、どう見ても「男の子」にしか見えない。 「つまり、あなたはお客さんに手を出したってこと?」  つい声がとげとげしくなるが、 「そうなりますね」  と、照れ臭そうに頭をかかれて、攻撃的な気分が長続きしない。  短い真っ黒い髪。こんがりと日に焼けていて、身長は百八十センチは越えているだろうか。腕や肩はしっかりと太いのに、どこかにまだ幼い線の細さがある。愛嬌がある顔立ちは、少し前に人気だったどこかのアイドルに似ているような気がする。愛想がよく気がよさそうで、たとえば彼が私のパート先のスーパーのアルバイトならついつい優しくしてしまいそうな、本当に感じのいい、可愛らしい男の子だ。ただ、そういう男の子がもう八十になる私の母と結婚したと言われても、困る。  ため息をついて、紅茶を飲む。私が指定した喫茶店で、周りには同年輩の女性しかいない。彼はメニューを隅々までじっくり見たあと、アイスコーヒーを頼んだ。一番安かったからかもしれない。私が出すので食べるものも何か頼んだらとつい高校生の息子と娘に言うような言葉が浮かんできて、でも言うのはやめておいた。 「やっぱり反対ですか?」  彼は困ったように眉を下げている。私は自分の頭の中を少し整理する。 「反対っていうか……」  ため息をつく。 「母の決めたことに、反対というのもね」  母は一人暮らしだった。父はもう二十年も前に亡くなって、それから一人で元気に生きてきた。もう自分の家族を持った私や弟とはそう遠くない場所に住んでいるので定期的に会っていたし、近所の人や結婚前からの友人たちとも仲良く出かけたり旅行に出ていた。趣味の水彩画もなかなかの腕前で、庭の花もきれいに手入れしていた。つい最近も私が作ったジャムを持って行った代わりにお菓子をもらって、なんの変りもなかったのだ。  それが突然電話をかけてきて、結婚した、と言ってきた。小さな、申し訳なさそうな声で、  突然ごめんね。  と、言った。結婚相手があんたに会いたいと言っている、と教えられ、約束した場所で待っていたのが、まさか、こんな男の子だなんて。  雅子さんが、と、男の子は言った。まさこさん。母の名前がそんなふうに呼ばれること自体に驚く。 「あなたには会ってほしいって言ってました」 「私には?」  弟もいるのに、私には? 一瞬戸惑い、ああ、と、思い出す。もうずっと忘れていたことなのに、すぐに思い至った自分に驚いた。この年になっても、いつでも出せる場所にしまわれていた記憶。  あんた、結婚って、あんた一人がするんじゃないんだから。あの人と一緒にいて、誰に対しても胸張れるって思えるの。  と、遠い昔、母は言った。そのとき私が結婚したかったのは傷害の前科のある定職のない、二つ年下の男の子だった。いつも何かに怯えていて、私にだけ、ほっとしたような顔を見せた。そういうところにどうしようもなく惹かれた。結婚したい、と言ったとき、彼はとても喜んでいた。反対されていると言うと、やっぱりなと笑った。その笑みの影を払えないうちに、私たちは徐々に遠ざかって、わかれてしまった。そして、私は誰に対しても胸を張れるような男と結婚し、誰に後ろ指をさされることもない生活をして、それなりに幸せだ。  彼と結婚していたら、とは、思わない。結婚とは生活であって、あのとき私が求めていたのは、自分の人生を差し出す、という行為であって、そのあとの生活を考えていたわけではない。母に反対されるのは当たり前だった。そもそも賛成されるような行為なら、意味がなかった。  それでも反対されたことは、悲しかった。彼との別れも悲しかった。仕方がないことでも、悲しかった。そのあとの幸福は、悲しみをなかったことにはしない。  私はその話を、目の前の男の子に訥々と話した。ずっと話していなかったことなので、私の声はあの頃、二十三歳だった私のつたなさのままだった。  彼はたいした関心もなさそうに、でも黙って聞いていた。話が終わった、というところで、 「俺、前科はないですよ」  と言った。私は笑った。 「じゃあ、反対する理由はないね」  と私は言った。別に、彼に前科があろうと、定職についてなかろうと、反対しないだろうとも、思っていた。したって仕方がないからだ。それは私の母への優しさと同時に、諦めでもあった。母への諦めというより、人生そのものへの。人は人を、本当はどうすることもできないのだ、という。そして、諦めは優しさと、ほとんど同じものでもあった。 「よかったあ」  彼は嬉しそうにした。  彼は母の話をしてくれた。スマホの使い方を聞かれて仲良くなったこと。仕事終わりに二人で、ちょうどその時間にやっている韓流ドラマを見る習慣ができたこと。母から庭の花を一輪もらって、嬉しくて花瓶を買ったこと。母に頼まれて二人でパンを焼いたこと。私が持って行ったジャムのために焼いたのだろう。先週籍を入れて、今月末に彼は一人暮らしの部屋を引き払うらしい。 「なんか……多分、恋愛かって聞かれたら、そうじゃないと思うんですけど、でも、他人でいるのが嫌なんですよね。家族になりたくって。だから結婚してくださいって頼んだんです」  と、彼は言った。私は、嘘だな、と思った。私には、彼が恋をしているようしか見えなかった。彼自身が気づいているのかわからないけれど。  一時間ほどで、私たちは別れた。彼は私に頭を下げた。とても礼儀正しい頭の下げ方だった。 「今度は家に遊びに来てください」  私は微笑んだ。もう、母の家は、もう彼との、新しい家族の家なのだな、と、実感した。変わらないと思ったものも変わっていく。この年になってもまた、諦めの領分が増えていく。それを、優しさに結びつけていたい。 「母によろしくね」 「はい」 「またジャムを持って行くから」 「ありがとうございます!」  本当にうれしそうな顔をする。母はそういうところを、好んでいるのだろうか。聞いてみなくてはいけない。  一人で歩きながら、私は遠い昔、恋した男の子の顔を思い出そうとした。あの、怯えたような顔。安心した顔。思い出そうとしても、時間と悲しみの記憶が、霞ませる。夫の顔を思い浮かべる。今朝も見た。簡単に思い浮かぶ。子供たちの顔も。私の安心な生活。帰ったら、ショッキングなニュースを話さなくてはいけないだろう。笑ってしまう。  衝撃を和らげるために、何か美味しいお菓子でも買って帰ろう。
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