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25結局、『結婚』って何だろう
「あの子、白状したの?」
電話口で鈴木華が喜びの表情でそう言った。
それが佐知の耳にも届いた。
佐知には、なんのことだかわかった。
本社の同期からの密告だろう。
多分、三浦さんと清野葵の件だ。
昨日、佐知と話合って浩太朗はビデオの証拠をもって謝罪に行くと言ってくれた。
きっと実行してくれたのだろう。
佐知は鈴木華から報告される前に安堵し、椅子の背に深く倒れ込んだ。
数日間の出来事だったけど、相当な精神力を使った。
無駄とはいわないが、本来しなくてもよい苦労をしたのだ。
ようやく幕引きが出来たのである。
椅子の背もたれに寄りかかり、短く息を吐いた。
そして、自然とお腹に手を添えていた。
「植村さんっ、あの事件、どうやら解決したようですよっ」
鈴木華が佐知に、晴れやかな表情でそう報告してくれた。
「そう、よかった。これでようやく心穏やかに通常の生活に戻れるわ。今回も鈴木さんにはお世話になったわね。ありがとう」
佐知は華にお礼をいったが、華は不思議そうな顔で違う方向を見ていた。
「なに? 鈴木さん、どうしたの?」
すると今度は、佐知の正面に座る菱沼が佐知を呼んだ。
「植村さん、あの……来てますけど」
と何事でしょうかという顔で、フロアの入り口を指さした。
佐知がその方へと顔を向ける。
するとそこには、ここにいるはずのない人物が肩で息をして立っていた。
それは隼人であった。
「……み、三浦さん?」
佐知は目を丸くした。
「通常の生活に戻るには、もう少し時間がかかるようですねっ、植村さん」
と、華は面白がるような笑みを浮かべて席に戻っていった。
隼人がズンズンッと佐知に近づいてくる。
「三浦さん、ど、どうしたんですか、こんな時間に⁉︎」
佐知は隼人のいつもとは違う雰囲気に後ずさりになる。
(あれ⁉︎ 私、三浦さんに怒られることしたっけ)
佐知は心当たりがない。
そんな佐知の目の前に立った隼人。
「植村さんっ」
「は、はい⁉︎」
佐知も思わず立ち上がってしまう。
隼人がグイっと佐知の手首を掴んだ。
ギョッとして佐知は掴まれた手を見て、何をする気なのかと隼人の顔を見た。
よく見ると、隼人は何かを秘めてギリギリ吐き出すのを我慢しているような顔をしていた。
そんな隼人が、一気に吐き出さぬよう慎重に口を開いた。
「植村さんっ、妊娠しているって、本当ですかっ?」
頬を赤らめてあの隼人が、人目憚らず訊ねてきたのだ。
フロア中の社員が隼人の問いかけに目を丸くした。
そして答えを知りたくて、今度は一斉に佐知の方をみた。
(えええっーーーっ、それをここで聞く?)
本来、佐知は目立つのは好きでは無い。
隼人も同類のはず。なのに!
佐知はフロア中の視線を集め、羞恥で目が泳ぎまくった。
「えっ、えっ、あの……」
佐知はこの状況で報告しなければならないのかという戸惑いがあったが、隼人の目が真剣そのものだ。
これはもう正直に答えるしかないと観念した。
「そ、そうですね、……本当です」
すると、華が嬉しそうに拍手をし始めた。
それを合図とするように、フロア内からも歓声と拍手が沸き上がった。
思いもよらぬ状況に、佐知の顔が真っ赤になる。
「あ、あの、三浦さんっ。この話の続きは、場所を変えましょう」
そういって佐知が歩を進めると、隼人にまたまたグイっと戻された。
「なぜっ、植村さんはいつも、大事なことを言ってくれないんですか!」
隼人の目にはもう、周囲など入っていなかった。
普段は冷静沈着だが、興奮の一線を越えると猪突猛進のようだ。
まるで恋をしたての無謀な若者のよう。
フロア内の人たちは、ワクワクしながらこちらを眺めている。
その様子がしっかり見えている佐知は、言葉に詰まる。
「だって、そのっ……。
面倒ごとが立て込んでいたので、整理されてから報告したかったんです。
あの……、三浦さん、こういう話は外に出て……」
佐知は握られている手を解き、今度は隼人の手を取り外に連れ出そうとした。
その時だった。
逆に隼人が手を引き、覆い被さるように佐知を抱きしめた。
刹那、佐知は隼人の胸にうずくまった。
「植村さんっ、ありがとう。信じてくれて。
……本当にありがとうっ」
隼人の抱きしめる手と声が、微かに震えているのがわかる。
こんなに感情に溢れた隼人は見たことがない。
佐知の妊娠という事実を知って、いても立ってもいられず、佐知のもとへと飛んできたのだのだろう。
佐知は隼人の温かい気持ちに、涙が溢れた。
職場の社員の面前でこんな大胆なこと、恥ずかしいと思ってしまう。
でも、けど、
こんな愛の告白は嬉しくない、
はずがない!!
佐知からも隼人の首に手を回し抱きしめた。
そして、
「当たり前ですっ。だって私、あなたのこと誰よりも大切なんですから!」
佐知もそう答えた。
涙が滲む柔らかな目で佐知は隼人を見つめる。
隼人も佐知を愛しい目で見入る。
2人はおでこをくっつけて、微笑み合った。
またまた周りからヒューヒューという口笛と拍手が聞こえた。
2人だけの世界へと誘われかけたその時だった。
『キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン』
とタイミングよく昼休憩のチャイムが鳴った。
それを合図に、一気に現実の世界に引き戻された隼人は、魔法が解けたシンデレラのようにはっと我に返った。
「はっっっ、植村さんっ、す、すみませんっ、こ、こんなところでっっ」
しどろもどろになった隼人は、抱き着いた佐知を丁寧に引きはがした。
顔は見たこともないくらい紅潮していた。
「……いいえ」
普段は見せない隼人の一面を見れて、佐知は嬉しかった。
クスリと笑った。
「お2人さん、お幸せで何よりです。でも、この支社のオフィスにはラブは不要なので、続きは人のいない場所でお願いしますね」
華がランチへ行こうと財布を片手にそう言って横切って行った。
その後ろを連れて歩く菱沼が、2人の前で一旦停まり「おめでとうございます」と深々を頭を下げて行った。
「まあ、色々あった2人だからね。植村さんの妊娠は本当なの? なら、きちんと報告頂戴ね」
樋口課長もこなれた対応をしてくれた。
樋口課長もこの短期間に何度同じようような光景を目にしただろうか。
支社の人事Gは一瞬の祝福と、あとは怖いくらいのビジネスライクだった。
佐知と隼人は申し訳なさそうに頭を下げた。
そして目を合わせ、笑った。
※
屋上のフットサルのコートの横にあるベンチに2人は腰を下ろした。
「で、植村さんの体調はどうなんですか?」
「これがまた順調で。つわりすらないんですよ」
「……よかった」
そう言った隼人は佐知のお腹を慈しむ目で見つめた。
佐知は少し照れながら、うーんと大きく背伸びをした。
「やっと心も体も楽になりましたねっ。
そういえば、三浦さんが支社に居たころは、昼休みにここでフットサルをやってましたよね。あれからまだ3か月しか経ってないなんて嘘みたい」
「ずいぶんと長い3か月でした」
「支社でも色々ありましたよ。あの菱沼さんも、今では好きな人を振り向かせたいと積極的に仕事に勤しんでいます。鈴木さんも好青年に生まれ変わった新人くんに恋をされたり。鈴木さんは今は迷惑がっているけど、いいカップルだと思うんです」
佐知も過去を思い出し、今となってはいい思い出とばかりに微笑んだ。
隼人はそんな佐知の顔をみて嬉しそうに目を細めた。
「すべてうまく回りましたね。あとは、俺たちだね」
そう言って隼人は片手を伸ばし佐知の反対側の腕を抱いた。
そして自分の身体に引き寄せた。
「たぶん、後にも先にも口には出さないと思います。だからしっかり聞いていてください」
屋外での慣れない隼人のスキンシップに、佐知は少し緊張する。
「な、なんですか」
「俺は植村さんが、大好きです」
唐突に虚を突かれた。
以前は頑なに拒否していた言葉を、今、隼人が口にしたのである。
佐知は心がぽあっと温かくなった。
「……ありがとう、三浦さん。とても嬉しいです……」
佐知は隼人の肩に頭を寄せた。
隼人もそんな佐知を満足げに見つめた。
「まあ、ずっと言え言え責められていましたからね」
「ん? その言葉は不要じゃないですか?」
佐知は肩から頭を離し、隼人の顔に向け眉をひそめた。
「好きなら好きってだけ言えばいいじゃないですか。私が責めたなんて、それは要らないですよね。やっぱり素直じゃないですね。三浦さんも」
そう言って佐知は口を尖らす。
「そうですよ。俺も植村さんに負けないくらい、意固地な人間ですからね」
隼人は佐知に笑いかけた。
佐知もそれにこたえるように笑い返す。
「三浦さんは、そう簡単に愛の言葉はささやかない。でも、傍にいると嬉しくて安心で心が落ち着いて。だから私、そんな三浦さんが大好きです」
「なんですか、それ」
2人で顔を見合わせ笑った。
佐知は隼人に出会って気が付いたことがあった。
佐知は『結婚』がしたいわけではない。
ただ、この人とずっと一緒にいたいだけ。
それに気がついてようやく手に入れた幸せ。
結婚は幸せになる目的ではなく手段。
(だから私は『結婚』をするのだ)
焦らなくてよかった。
諦めなくてよかった。
人生すべての経験は、決して無駄にはならない。
それが肥しとなり、未来の自分を輝かせる材料となる。
だから、三十路だからと嘆くことはない。
歳を重ねることは、幸せなことなのですから。
ー 完 ー
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