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1 そのトレード、最悪です!
あれから、植村佐知と三浦隼人は結婚へと突き進むはずだった。
三浦さんの父親が倒れるまでは。
タイミング悪く入院することになり、状況が落ち着くまで結婚の話は一時ストップ。
顔合わせはしてないが、不本意ながらすでに本人たちの挨拶が済んでいたので、両家ともにこの結婚には異議はなかった。
むしろ大歓迎であった。
しかーーーし、そう上手く事が運ばないのが、植村佐知の生まれ持った運なのだろう。
手に掴めそうになると離れていく結婚。
そう植村佐知は、なぜか結婚ができない。
※
「ええええええーーーーーーーっ、異動っ???」
左薬指にエンゲージリングをはめた佐知は、その手でデスクを叩いた。
「植村さん、声、でかいですよ」
三浦隼人は人差し指を立たせ、静かにと制した。
今、目の前のデスクに座っているのが、佐知と結婚を約束した恋人の三浦隼人だ。
同じ職場の同僚として働いてきた、というより一緒に働きだしてまだ半年も経っていない。
それなのに三浦隼人は本社人事部へとイレギュラー異動となったのだ。
「本社で何かあったんですか?」
佐知は訊ねる。
「わからない。ただ……」
隼人が俯いて、わかりやすいリアンションを取る。
「なんです?」
覗き込む佐知。
「大声、出しませんね?」
「はい!」
佐知はわざとらしく了解ポーズをつくる。
隼人は周りを一瞥して佐知に近づき囁いた。
「俺と菱沼がトレードされるらしい」
佐知は一瞬ぽかんとした。
「つまり……三浦さんが本社へ、代わりに菱沼麻友子がここへ……」
「いやああああああああああああああ」
その声はフロアいっぱいに轟いた。
フロアにいた社員が一気に振り返る。
そしてまたあの2人ね、とすぐに興味をなくした。
「君たち、そういうのは外でやりなさい」
2人は樋口課長に怒られた。
三浦さんがすみませんと、無言で頭を下げる。
佐知はそれも知らず、名前も聞きたくない人物がここにやってくることに顔色が一気に青ざめていた。
「あの、あの菱沼麻友子が、ここにやってくるんですか?」
佐知の代わりに後輩の鈴木 華が隼人に聞いてきた。
鈴木華は若い割には、冷静に周囲を観察し的確に行動できる子だ。
「嘘でしょう? 菱沼麻友子がここに来ても役に立たないですよ。
要らない、返品しましょう」
苦虫を潰すように、小皺を鼻に寄せた。
鈴木華にとっても菱沼は食えない女であり、近づきたくない存在だ。
「鈴木さん、返品って。物じゃないんですから」
隼人が呆れて言い返した。
「支社は本当に実力がある人しか来ちゃいけないんです。人も少ないのに上から降ってくる仕事を捌かなくてはいけない。それなのに三浦さんの代わりが木偶の坊って、ゴミ捨て場扱いですか、ここはっ」
「それは言い過ぎじゃなの。鈴木さん」
小汗をかいた樋口課長が再び口を出した。
支社の人事部人事Gは相も変わらず賑やかであった。
※
その日の帰り、佐知と隼人はいつものうどん屋に寄った。
2人はいつもの、きつねうどんをすすっていた。
「明日から三浦さんと一緒に働けないんですね」
「結婚したらパートナーは離されますし、遅かれ早かれの異動ですよ」
「そうですね……。結婚したら……」
思わず色んなことを想像した佐知はにやけてしまった。
ついに佐知たちは結婚する。
もしかしたら今回の異動は、会社が早々と自分たちのお膳立てしてくれたのかもしれない。
がしかし、一つ納得がいかないのが菱沼と隼人のトレードである。
「なんで菱沼さんなんですかね?」
「さあ、詳しくはわからないけど、俺が元々いた場所だから配慮してくれたのかと」
隼人はそう言い終えると、ちゅるりとうどんを吸い上げた。
「うーん。あれ来るのかあ。頭が痛いな」
福岡で佐知たちに啖呵を切ってから、なんの音沙汰もなかった菱沼麻友子。
平和で静かな時間を過ごせていたのに、よりによってあの傲慢知己がやってくるのだ。
そりゃ、頭も抱えたくなる。
「三浦さんから旧恋敵が仕事パートナーになるのかあ。私って運があるのかないのか、わからないな」
佐知は箸を止めたまま宙をみた。
「運がないはずないでしょう、だって俺たち結婚するんだよ。結構、運命的な展開でここまできたような気がするけど」
三浦さんが珍しく意見した。
運命的だなんて、佐知が照れるようなセリフだった。
「まあ、そうですね」
佐知は顔を赤らめ俯いて喜んだ。
「菱沼だっていい歳こいて、いつまでも馬鹿はできない。きっと少しずつ変わってくよ」
「うんっ」
「何より、植村さんとパートナーとなれば、彼女は変わらざる負えない」
隼人は意味ありげにクスリと笑う。
「それ、どういう意味ですか?」
佐知は首を傾げた。
「植村さんの仕事に対する正義感や姿勢を目の当たりにすれば、彼女もいい意味で感化されていくはずです」
「三浦さん、ずいぶん私のこと褒めてくれますね」
佐知は頬を赤くした。
「俺はそんな植村さんに惚れましたから」
いつもは無神経な隼人だけど、本当はすっごく素直で実直。
だから時々、こんなセリフが突然と飛び出す。
佐知もそんな隼人が大好きだった。
「ありがとう。三浦さんは本当に表裏のない人ですよね。心から信頼できる人です。距離は離れますが、安心して送り出せます」
佐知は隼人に微笑んだ。
「それは僕もですよ」
信頼ーーー
この言葉で二人の絆はがっちりつながれている
ーーーはずだった。
※
翌日。
「ついに、奴がくる」
鈴木華が最恐モンスターに対峙する勇者にように、目に力を込めて言った。
目を細めて凝視したら、華の手に盾と矛が見えてきそうなくらいだ。
「鈴木さん、力みすぎだよ。菱沼さんも一応人間だから」
佐知がまあまあと静めた。
鈴木華は首をクルっと佐知に向けた。
壊れた人形の首が回転するようで、佐知はビクッとなる。
「植村さん、今回のトレードの裏側、三浦さんから聞いてないんですか?」
グイっと顔を近づける鈴木に佐知は思わずのけぞる。
「いえ、何も……」
「ほんっと、三浦さんて平和主義というか危機感が無さすぎるっていうか、物事を甘く見てますよっ」
「え? なにか事情ありなの」
てっきり私たちの結婚が理由だと思っていた。
そうでないとなると、今回のトレードの理由は一体なんなのか。
佐知は知りたくなった。
「私、本社の同期に探りをいれました。そうしたら、衝撃の事実がっ」
華は凄腕探偵の風格たっぷりだった。
「な、なに」
佐知はごくりと生唾を飲んだ。
「前回、福岡出張の際、1名の欠員がでて三浦さんが代わりになりましたよね。その欠員の社員は今も療養中だそうです。療養に追い込んだ原因は、あの菱沼麻友子が関係していました」
鈴木華はさらに興味をひきつけた。
「療養中の社員は若い男性だそうです。その社員が菱沼に手を出されて恐怖で出社ができなくなり、適応障害で療養に追い込まれたそうです。
それで今回、その社員が菱沼を排除して現場復帰を望み、でなければ会社を訴えると強気に出ているそうです。困った会社は、菱沼を異動させて空いた席に三浦さんを当てようと、今回のトレードに至ったんですよ」
「はああ?? 菱沼が若い子に迫って、精神的に追い詰めちゃったってこと?」
佐知は空いた口が塞がらない。
あの女は本物のおバカなのかもしっれない。
三浦さんだけでなく一体何人の男に手を出しているんだ。
あの強気のメンタルといい、あれはただのエロではない。
もはや呆れるくらいのエロ神さまだ。
「会社側としては菱沼麻友子を見限って新人をとることにしたようです。
まあ、余罪もあったんでしょうね」
「手に余る人物ってことか」
それがこれからここに来る。
それなら溜め息の10個や20個でたっておかしくはない。
「私、仕事は円滑に行いたいんです。
業務以外のことで手間取るの大っ嫌いです」
鈴木華は語気を強めていった。
「……それ知っている」
佐知は何度か鈴木華に怒られたので耳が痛かった。
「菱沼麻友子、なんとしてでも追い出したい。噂話も聞こえてこないくらいのチョーど田舎に異動させればよかったのにいぃ」
と鈴木華が熱弁している背後から、甘い香りとともに怒りがこもった声が聞こえてきた。佐知にも聞き覚えのある声。
「ちょっと、人の悪口大声で言うのやめてくれる?」
フロアの入口に腕を組み仁王立ちしているのは、あの菱沼麻友子であった。
相変わらず、朝から無駄に濃ゆすぎるエロオーラを纏っていた。
フロアの社員がみな菱沼に釘付けになった。
一部の社員は、菱沼のエロ武勇伝を耳にした者もいるであろう。
面食らっている者もいれば、どこか顔を紅潮させワクワクしている者もいた。
「うえっ、出たっ」
と鈴木華がゴキブリが現れた時と同じリアクションをした。
佐知は思った。
ここはきっと荒れ果てるわと。
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