【転】なくもんか

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【転】なくもんか

 「大変、遅刻しちゃうよ!」  珍しく寝坊した朝、自転車に乗って、急いで坂道を駆け上る。よりにもよって、こんな日に遅刻しそうになるなんて。  こんな日にーーそう、今日はいつもと違う特別な日。喜喜の30回目の誕生日なのだ。  風と未来動物園の一員となってから地元で一人暮らしを始めた私は、この6年の期間で薄化粧にマスクで自転車通勤をすることが当たり前になっていた。  しかし、この日はテレビの取材が来る日であるということをたったの数秒前に思い出し、後悔の念がペダルを漕ぐ足を鈍らせた。  「どうしよう……いいや、私は馬鹿なのか? 主役は30歳を迎える喜喜なんだから、自分の映りの良さなんて気にしてらんない!」  一瞬家に戻ってメイクをし直すか迷った自分を戒め、全速力で両足を回転させる。  自転車を降り、6年前と同じ貼り紙が貼られたドアを開けてロッカールームへ向かい、すっかり馴染んだ飼育員服に身を包むと私は喜喜のメンテナンスに向かった。  今時のテレビカメラは精巧で、肉眼では気付きにくい"アラ"を映してしまうかもしれない。私は爪の先から体毛一本一本に至るまで"彼"の体を漏れなくチェックした。  顔を近づけて確かめていると、喜喜は私に頬を寄せて愛情表現をし始める。  オールOKと判断するや否や、私は一口大に切ったりんごを手のひらに乗せて彼の前に差し出した。それを頬張り、嬉しそうに目を細める喜喜。  あれから研究を重ね、喜喜の仕草はより本物のジャイアントパンダに近づいていた。今となっては、エンジニアである私でさえも"作り物"であることを忘れてしまうほどである。    「蛍野さん、ぬくもりTVの取材班が到着しました」  「ありがとう、もうスタンバイOKよ!」  取材は約3時間。放映時間はたったの3分間だが、どのシーンが切り取られて採用されるかはわからないので気を抜く暇などない。  撮影前、まるで私の緊張が伝わっているかのようにいつになくぎこちない喜喜であったが、それを見て私はやっと冷静になることができた。  この6年間を密に過ごした彼との関係はもはや親子も同然。彼が緊張しているということは、私の緊張が写し鏡のように反映されているということ。  「ごめん、テレビなんて初めてだから気持ちが高ぶっちゃって。でも、もう大丈夫。君がいるから」  笑顔でそう言うと、彼は温もりのある身体で私を包んでくれた。  その後取材班が現場に入ると、給餌やヘルスチェックなどといった私たちの日常業務、来客の前で悠然とタイヤに乗りかかり寝転ぶ喜喜の姿、30年間を振り返る園長と私へのインタビューなどを撮影し、最後にはきっと高視聴率間違いなしだとスタッフ同士で言い合いながら満足そうに帰っていった。  私たちは全てを出し切ったけれど、彼らもいいものが撮れたらしい。  しかし、オンエアされるまではまだ不安が残り、当日を迎えるまで気が気でなかった。  それから1週間後、テレビで喜喜生誕30周年のニュースが放映されると、その貫禄ある老パンダの姿が日本中で話題になり、SNSも大いに盛り上がった。  機械みたいだなどという意見だって一つもなく、みんなが本当に生きたパンダだと思って疑わなかったようだ。  私はただ嬉しくて、放送の翌日に意気揚々と職場へ向かった。  「蛍野さん、放送見ましたよ!」  「喜喜くんの活き活きとした姿、全国のファンに届けられたと思います」  「喜喜も、光先輩も、とても輝いてました!」  目玉動物であるジャイアントパンダ担当として6年間働いてきた私は、すっかり職場のヒーローのような扱いだった。  今回のテレビ取材の成功は喜喜の裏事情を知る動物園関係者からも好評だったようで、会う人は皆絶賛する言葉を投げかけてくれた。  そんな中、いつも笑顔の有賀園長だけはどこか寂しげな表情をして窓の外を眺めていた。  「どうしたんですか? 有賀園長」  「いやあ、喜喜ももう30歳。天寿を全うしてもおかしくない年齢だなぁと思って」  「任せてください。まだまだ少しずつリアリティのある老化を再現しますから」  「いいや、もうこれ以上老化させるのは限界だろう。ちょっとこっちで話さないか?」  園長は続きを誰もいない予備部屋に移動してから話し始めた。  「実はね、人間に換算して100歳近くを迎えてもなお元気に長生きしていることに興味を持った海外の大学が彼を研究させてくれないかと申し出てきたんだ」  「そんな! もし大学なんかに研究されたら彼の正体が……」  「彼は君の手に渡ってからますます生物らしさを増して、今では本物を超えるくらいのクオリティだと思っている。喜喜自身もきっと、自分をロボットだとは思っていないだろう。私はそんな彼をパンダのまま死なせてやりたいんだ」  「それはつまり、彼との別れは避けて通れない道だということですか?」  「……長年喜喜に寄り添ってくれた君にとっては残酷な選択になると思うが、考えて欲しい。君が首を縦に振はない限りは実行しない」  私は喜喜との思い出で胸が一杯になった。  もし事実が露呈すれば、みんなの中にある愛くるしいパンダとしての記憶が一瞬にして"ただのロボット"という認識に塗り替えられてしまうだろう。彼の名誉のためにも、それだけは避けなければならない。  彼がこの園からいなくなれば、私がここにいる意味もなくなる。しかし、自分が路頭に迷って生計がままならなくなるとしても、私には彼をパンダとして死なせてあげるという選択肢以外に考えられなかった。    「私に、やらせてください」  動物園の人気者の最期の瞬間は、その日の夜だった。  どんなに精巧に作られているとはいえ、ロボットなので電源を落とせばただの毛が生えた鉄塊と化してしまう。  私は無言で彼を抱きしめ、長い体毛を掻き分けて首筋へと手を伸ばした。  何かを察したような、悟ったような眼で彼は私を見つめる。  無言でメッセージをやりとりするかのように、何十秒も私たちは互いの目を見続けていた。  「喜喜……」  遂に私は耐えられなくなって肩を震わせ、涙を流してしまった。  そんな私の顔を覗き込み、彼はパンダらしからぬ人間じみた笑顔を向けてきた。  恋する乙女のような澄んだ瞳を直視できずに私は目を逸らす。  "泣かないで。君と歩いた季節を僕は忘れないから"  私は慌てて彼を見る。喋れるはずのない彼からのメッセージが私には今確かに聞こえた。    "だから、幸せな笑顔をもう一度見せて"  彼の熱い眼差しから目を逸らさずに、私は満面の笑顔を見せた。そのまま手を伸ばし、指で探り当てたスイッチをオフにする。生物としてのリアリティを求めた彼の体は、一度電源を落とせばもう二度と起動することはできない。    「さよならは悲しい言葉じゃないなんて、そんなの嘘だよ……」  時計の針が止まった喜喜の体はまだ温かく、私はそのまま何時間も亡骸を抱きしめ続けた。
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