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【起】ハジマリノウタ
開いたドアをくぐり抜け、誰もいない静かなホームに降り立った。私にしかわからないかもしれないが、どこの駅とも違う、久々に踏みしめるコンクリート床の感覚だ。
改札を出て向かったのは噴水広場。中学2年生の夏、ここで初めてのデートの待ち合わせをしたっけ。
あの頃の彼は今どこで何をしているんだろうか? と頭の中で誰にでもなく尋ねてみる。
別に現在の彼のことが本当に知りたいわけではなく、過去に想いを馳せてノスタルジアに浸りたかっただけだ。
ここ数年間は研究一筋でコンピューターが恋人のような生活を送ってきたけれど、こんな私でもかつては人並みの青春時代を過ごしたのだ。
そして、こんな田舎に私が舞い戻ってきたのは、故郷のとある職場に就職が決まったからだ。
ロボット工学の知識が活かせそうな工場や研究施設など一つもないこの地域で、私を必要としてくれた職場ーーそれは、幼い頃から馴染みのある"市立風と未来動物園"だ。
転機となったのは、教授のもとに送られてきた1通のメールだった。
学務課が各研究院宛に振り分けた就職推薦リスト一覧の中に、大手メーカーに混じってとある職場からの求人があったのだ。
「蛍野さん。この動物園って君の地元じゃないか?」
そこは私が幼稚園生くらいだった時はどこの県にもあるような普通の動物園だったが、小学2年生の冬にジャイアントパンダの喜喜君がやって来てからは全国的に知名度を上げた。
一時期は地元民ですら入園が困難なほどに人が殺到したものだが、中学生になる頃には客足もピーク時よりは少なくなり、20分ほど並べば普通に入れる程度の人気スポットへと落ち着いた。
何を隠そう、私が初デートで訪れたのもこの動物園だ。
それにしても、お母さんやお父さん、学校の友だち、初めての彼氏……たくさんの思い出が詰まったこの場所がなぜロボット工学のエンジニアを欲しているのだろうか?
労働力のロボット化が遂に動物の飼育などにも及び始めたというのだろうか?
10年前の職場体験でデリケートな動物たちの些細な変化にも気付いて対応する飼育員さんたちの姿を見ている私には、ロボットなんかでその代わりが務まるとは到底思えなかった。
そうこう考えながらも、社会人となるに当たって新調した鞄を片手に私は桜の花弁がひらひらと舞い落ちる坂道を上っていた。
見上げれば、まだ枝に残った桜たちの隙間から遠い空が澄んでいるのが見える。
ここを上りきったら私の新しい一歩が始まる。
何度も通ったことのある正面ゲートが見えてきたが、私が向かうのはその裏側。
関係者専用の文字が書かれた貼り紙の前でインターホンを鳴らし、係員の声に導かれるままドアを開けて足を踏み入れた。
私がこれまで何回も訪れてすっかり知った気になっているこの施設も、まだ知らない裏側がある。そんな、どこか知りたくないような、それでも気になる世界の住人となることに胸を高鳴らせながら私は奥へと向かった。
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