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蓮の宮の君は頭がおかしい。
そう様々な人間に言われて早十年以上が経つ。今更訂正しようとも思わないし、頭がおかしく見える容貌をしている事は自分自身でも重々承知している。
今日も宮仕えの為朝の支度をする。官僚の衣に袖を通した後、長く腰まで伸ばした黒髪に油を軽く塗り一つに括る。目元には一筋の墨を引き、唇に紅を差した。上背も有り体躯の良い男がする格好では無いのは承知の上だ。分かっていながらしているので、今日も道すがら密かに囁かれる悪口や中傷には何の感情も沸かなかった。
これは母を捨てた父への当て付けで始めた事だ。誰にも何も言わせまい。
「本日は以上で御座います」
「そうか」
雑用の使用人が俺の目の前の巻物を仕舞う。使用人ですら俺を見る目に蔑みが滲んでいるのを感じるが、身分差から表立って何か言われる事は無い。俺は仕事も終えたとばかりに部屋を後にする。咋に俺が立ち去った後の部屋が安堵の空気に包まれ和やかな雑談が開始されるのを襖の向こうに感じながら、俺は自室である蓮の宮へと帰る事にした。
使用人も付けずに一人宮中の長い廊下を歩いていると、前から見知らぬ男がやって来た。この国の宮仕えの服でも貴族の服でも無い、不思議に鮮やかな衣装を身に纏った男だった。黒い髪は短く波打ち、この国の人間では無い事を物語っている。
男は後ろに何人かの護衛と思われる人間を連れて歩いていたが、如何せん知らぬ男の為身分が分からない。相手が高位の人間であるなら自分が廊下の端に寄り跪いた方が良いのかと逡巡していると、何故か男がかっと怒った様な表情になった。
「そこのお前」
「……私ですか」
「お前以外に誰がいる」
不快感を隠そうともしない高圧的な態度で、男が自分より数歩前で立ち止まる。こんなに高圧的な態度を取るのならこの男は高位の人間なのだろう。面倒な者に捕まったと俺は思いながら立ち止まる。
みるみるうちに男は眉根を寄せ、顰めっ面になっていく。
「その容貌は何だ」
「何だ、とは」
「男がする物では無い。この国にそんな文化は無かったと思うが」
「だったら、何なんでしょう」
「みっともない。何処の誰かは知らんが今すぐ化粧を落とせ」
「……」
面と向かってそんな事を言われるのは久しぶりだった。十年程前からこの格好をしている為、今では全ての人間が諦め遠目から嫌味を言う位の事しかされないので久しぶりの罵倒に驚いてしまう。
それと同時に、心の底から不快感が沸いてくる。何故知らない人間にこんな事を言われなくてはならない。
高位の人間であろうと関係ない。俺自身まがりなりにもこの国の皇子なのは間違い無いのだ。何も言わせはしない。
「こちらこそ、出会い頭の知らない人間にそこまで言われる筋合いは無い」
「何?」
「あんたに俺の何が分かる?俺には俺の事情が有る」
俺は男を睨み付けると、会釈もせぬまま男と従者達の横を通り過ぎて廊下を通り過ぎた。後ろから男が何かを言っている声が聞こえたが、無視して俺は自室の蓮の宮へと足を進めた。
「只今」
「お帰りなさいませ」
俺に長年仕えている使用人の爺に上着を渡すと、部屋へ続く廊下を再び歩いた。
この廊下は水の上に建っている。特殊な構造で、宮全体が水の上に骨組みを組んで建てられているのだ。
廊下から少し進むと、母屋とは別の小さな小屋が廊下から伸びている。俺は其方に足を進めた。赤い屋根と柵が付いた小屋は四方をこの広大な池に囲まれた場所で、柵からは大きな蓮の池が一面見渡せる。
美しい場所だ。その見目だけでは無い、俺の美しい思い出が詰まった場所でもある。俺は柵から手を伸ばし、蓮の葉にほんの少しだけ触れた。
「花が咲くのも、もうじきか」
夏の始まりの数日の間、数時間だけ花を咲かせる蓮。俺は一面に咲き誇る蓮の花に思いを馳せながら、毎年来るこの季節に悲しみを覚えるのだった。
俺がこの様な格好をしているのには理由がある。この国では成人した男は髪を短く整えるのが普通だが、俺はそれに反して腰程にまで長く伸ばしている。目元に墨を、唇に紅を差すのも男がする事では無い。明らかに女のする事であった。
だからこそ俺は浮いていたし、人からは遠巻きに中傷され遠ざけられた。俺が正真正銘この国の皇子だとしても。
母は名も無き踊り子の娘だった。皇帝である若き頃の父に見初められ側室として召し上げられ、この蓮の宮を与えられ俺が生まれた。十二番目の皇子であり、母に地位も後ろ盾も無い俺は昔から宮中で蔑まれる存在であった。しかしそれでも俺は幸せだった。
美しく明るい母、時折しかやって来ないが優しい父、そして蓮の宮と名付けられたこの場所。夏に咲く蓮の花の時期は、父は足繁く母の元に通って来ては家族三人でこの小屋に集まった。花を眺めながら茶を飲んで団欒をする位の事しか出来なかったが、小さな頃の俺にとってはこの上無く幸せな時間だった。
それが終わりを告げたのは俺が齢十の頃の話だ。父がめっきり蓮の宮へ現れなくなり、それと同時に母は心労からか体調を崩しがちになる。俺は何度も母の見舞いに来る様にと父に文を出したが、何れも無視された。結果として母はそのまま父に会う事無く息を引き取った。
母の葬儀にも父は来なかった。
俺は憎しみに燃えた。しがない踊り子の町娘だった母を召し上げておいて、飽きたのか放置して葬儀にすら来ない父が心の底から憎かった。
その日から俺は化粧をして髪を伸ばす様になる。生憎俺は父に似ておらず母と瓜二つの顔立ちだった事もあり、当時の俺は正に母の生き写しだった。成長して男らしい風貌になった今でも、俺はその装いを止めなかった。
これは仕返しである。母を忘れた父への。
通常側室が逝去した際は宮ごと取り壊される習わしも無視し、俺はそこに居座った。元々数少ない使用人達も次々と居なくなり数人しか残らず、見ず知らずの宮廷の人々からは「蓮の宮の皇子は気がふれていて頭がおかしい」とすら言われるが、気にも留めない。
宮廷での文官の仕事に就いてからもそれは変わらず、俺はこの装いを続けていた。
しかし、そろそろ頃合だと言う事も分かっていた。
この水に浮かぶ蓮の宮の維持費は相当なものだ。これを維持出来たのは母の残した幾許かの資産と俺の給金であったが、それも底を尽きそうになっている。
せめてこの夏、蓮の花が咲くまでは…と思っているのと同時に、この思い出の場所を取り壊してしまうのが怖かった。
悲しかったのだ。俺の居場所が無くなる事も勿論有るが、何より母と父との暖かな思い出が全て無くなってしまう事が。この美しい場所が無くなってしまう事が悲しくて堪らなかった。
それに合わせてこの化粧を止め、髪を切る事も考えはするのだが、まだ考えが纏まらない。仕返しや意趣返しの為に始めたこの装いだが、これを止める事で母の面影が全て消え去ってしまう様に感じてしまう。
俺はまだ蕾を付けた段階の蓮の花を見詰めながら、大好きなこの花の咲く時が来て欲しい様な来て欲しく無い様な複雑な気持ちでいた。
「苑(えん)様、お客様が居らしておいでです」
「客だと?俺に?」
「はい」
「誰だ」
「分かりかねます」
蓮の花がいよいよ咲き始めようとしているこの頃合に、蓮の宮に客が来たと爺が申した。この宮に客なんて数年は来ていないが、この宮廷に長年居る爺すらも知らぬ人間が訪ねてくるとは妙だ。分からないが通すように伝えて、現れた人物に俺は顔が歪むのを自身で感じた。
「お前は…」
「……」
何時ぞやに宮中の廊下で罵詈雑言を浴びせられた、見知らぬ異国の男がそこにはいた。苦々しい気持ちになりながらも、通してしまったからには客人となる。茶を出すよう爺に伝え、宮の奥の客間に通した。
「…」
「……美しい宮だな。この様な見事な造りは見たことが無い」
「で、ご要件は」
ああ、と男が咳払いをした。運ばれて来た茶を一口啜ると、男はあろう事か頭を下げた。
「済まなかった。先日は初対面にも関わらず、そなたを批判し口汚く罵った。申し訳無い」
「……」
「私は隣の砂の国から参った皇子で、イナミという。聞けばそなたも皇子との事、何かしら訳が有りその様な格好をしているのかもしれないと悔い改めた。その、我が国では化粧をする男は…男娼しか居らぬのだ。劣悪な環境に居る庶民の境遇を変えたいと常に思っており、そなたと重ねて余計に怒ってしまった。申し訳無い」
何と、男も隣の国の皇子であったと。しかし自国の男娼と俺の姿を重ねて怒ったと言うのか。余りにも正直で馬鹿げた話だ。
俺は鼻で笑った。
「それは、態々どうも。はしたない格好をしている自覚はあるし言われ慣れているので」
「…」
困った様な顔をしたイナミとやらにさっさと退室を促そうとした時、部屋の片隅に居た爺が俺に目配せをした。俺は客室の襖からそっと外を見遣り、そしてイナミの方を向いた。
「イナミと申す皇子、運が良いらしい。俺の宮の美しい様を見て帰ると良い」
「…ん?」
「蓮の花が咲いた」
数年は客人の来なかったこの蓮の宮にたまたま人が来た時が、年に数日しかない蓮の花が咲く時とは運が良い。俺は客人を例の蓮が見渡せる小屋へと案内した。案の定、男は息を飲んでその光景を見詰めていた。
「なんと……これは、美しい」
「だろう?亡き母の愛した蓮の花たちだ」
まだ全ての花が咲き揃ってはいないが、数日で全て咲くだろう。
取り壊してしまう前の最後の夏に、良く知らない人物とは言え人に見せられた事は僥倖だ。少しでもここが人の記憶に残ってくれれば俺は嬉しい。
花にそっと顔を近付けると、ほんのりと爽やかな香りが鼻腔を擽る。控えめで優しい香りに思わず顔が綻ぶ。
ふとイナミの方を向くと、目が合った。イナミは何故か驚いた様に固まってしまう。
「どうかしたか」
「……いや、美しさに驚いただけだ」
「そうだろう。この蓮の宮は俺の誇りだ」
「また、来ても良いだろうか」
「勿論。あと七日から十日くらいの、日の出から日が高く登る辺りの時間しか花は咲かない。宮に人が居ない事もあるだろうし、朝に来ると良いだろう」
「承知した」
イナミはまた会おう、とだけ良い、微笑んで去って行った。
それから毎朝、律儀にイナミは現れた。
聞くとこの国の滞在はあと少しとの事らしい。隣の砂の国と我が国は国交を結んでおり、条約の締結に皇子であるイナミが派遣されているとの事だ。
政治に関わらない俺には関係の無い話だが。
俺は毎朝、イナミと小屋で朝の茶を飲みながら、短い時間だが談笑する日々が続いた。
「苑」
「イナミ、来たか」
「我が国の茶葉を持参した。独特の香りがあるが、気に入れば飲むといい」
「ありがとう」
朝は清々しい。
そしてまた、奇妙な感覚だった。
母が亡くなった後、俺は誰かと談笑等した記憶が無かった。人に好かれる事を捨て、母の死に囚われているのだ。例え小さな頃から忌み嫌われていた皇子だとしても、普通に生活していれば友の一人や二人は出来たはずだ。それすらも居ないのは俺が選んだ道である。分かってはいたが、こうして他人と話すのは存外楽しい物なのだとこの歳で初めて知った。
政治の話はつまらないが、イナミの分かり易い言葉選びを聞いているのは楽しかった。
気付けば毎朝がほんの少しだけ楽しみになっている自分に気が付き、正に不思議な気持ちで一杯になる。
それから数日後、俺が非番の日の事である。
今日も律儀に朝現れたイナミに、俺は勝手知ったる様に小屋に案内した。そして貰った茶葉で淹れた茶を飲む。
蓮の中には既に今年を終え花を咲かせなくなった物もいくつかあった。本当にあと数日で全ての花が閉じてしまう事だろう。
物悲しい思いを抱きながらも、俺はイナミに伝えた。
「あと数日か。私自身もあと数日で自国に帰らねばならないが…儚い花だな」
「そうか」
その儚さが俺は好きだったんだ。そう言おうと思ったが、何だか益々悲しくなってきて俺は口を閉ざした。
自国に帰るとあれば、もうイナミと会う事も無くなるだろう。当たり前の事だが、しかし何故こんなにも心が痛いのか。
黙ってしまった俺に、イナミが続ける。
「また来年には美しく咲くのだろうな」
「……そうだ。しかし、来年にはもうこの蓮の宮は無い。取り壊すのだ」
「取り壊してしまうのか、この美しい宮を」
「もう維持費が持たない。十年粘って来たが限界が来た」
「そうか…」
「最後に、イナミに見てもらえて花も、母も喜んでいるだろう。ありがとう」
何故かは、分からない。
ぽろりと涙が零れた。驚いて己の顔を触ると、確かにそこは濡れていた。母の葬儀ですら泣かなかった。なのにどうして今俺は泣いているのだろう。
呆然としていると、イナミが立ち上がった。俺の目の前に腰を下ろすと、そのまま長い腕がそっと俺の体に回って来る。
益々決壊してしまった涙腺のままに、俺は静かに泣いた。暫くそうしていたが、俺がふと顔を上げた時…イナミと目が合った。
そしてその目の前にあった顔が更に近付いて来てその唇が、俺の唇と重なった。
直ぐに離れていったそれに、俺の差している紅がほんの少しだけ移っていた。イナミの様な男らしい男の唇が染まっているのは面白く、俺は少しだけ笑ってしまった。すると途端に再び顔が近付いて来て、激しく唇が重ねられた。
そのまま小屋の中で押し倒されて、イナミの手が俺の服に侵入して来る。
この様な経験は生まれてこの方無かったが、イナミ相手ならば良いと思えた。俺は力を抜き、その身を委ねたのだった。
「これは?」
「蓮を象った腕輪だ。時間が無く簡素で済まないが」
「いや…とんでもない。美しい物をありがとう」
イナミの自国への出立の日、朝一番に訪れ箱を渡された。中には見事な銀細工が施された腕輪が入っていた。填めてみると、腕の太さに丁度収まった。いつ採寸されたかも知らないが、まあ良いだろう。蓮の花の形が幾重にも重なった見事な腕輪だ。
そっと微笑むと、イナミは俺を抱き寄せた。驚かない事も無いが、これ以上の事を先日した手前狼狽える程の事でも無い。俺はイナミの体に腕を回した。
「近いうちにとは言えないが、必ずまた会える様にする」
「…砂の国の第一皇子の癖に、皇帝に即位すれば身動きは取れまい」
「知っていたのか」
「名前で調べればすぐ分かる事だ」
そう、イナミは隣国の第一皇子であった。だから皇帝の代理としてこの国に来ていたのだ。少し調べれば政治に疎い俺でも直ぐに分かる事だった。
だからもう二度と会う事は無いだろう。自国に戻ればそのうちイナミが皇帝となる。そうなればおいそれと会える身分でも無い。身が引き裂かれる様な思いだが、俺の様な変わり者で捨て置かれる他国の十二番目の皇子なぞ、忘れる方が良いのだ。
イナミは腕を離し、俺の手の甲に唇を落とした。
「それでも、俺は苑を所望する」
「無理な話をするな、俺の事は忘れろ」
「忘れない。苑の事も、この美しい蓮の宮の事も。一夏の夢では終わらせない」
また必ず、とだけ言い、イナミは力強い視線のまま宮を後にした。
残された俺はその熱にただ呆然として、去って行く背中を見送る事しか出来なかった。
それから、俺は父に蓮の宮の取り壊しの願いを申し立てた。久しぶりに顔を合わせた皇帝である父だが、一つ頷いただけで特に会話すらも無かった。
俺は僅かな数の使用人と共に、宮廷内の官僚の住まう寮へと移った。仮にも皇子だからか、普通の文官とは比べ物にならない広さの部屋と寮脇に小さな一軒家すら与えられてしまったが、蓮の宮に比べればこぢんまりとしている。
髪も切った。腰程まであった長い黒髪はこの国の標準的な短さまで整え、墨や紅等の化粧も止めた。
「蓮の宮の君が正気に戻ったらしい」と今度はまことしやかに囁かれる様になったが、どうでも良い事だ。俺は元より正気だ。
容貌を普通に戻したとしても、特に俺は変わらず日々恙無く仕事を熟す日々が続いた。
それでも、蓮の宮と母の事、最後に会ったイナミの事は忘れる事は無い。俺の腕には常に蓮の花が象られた腕輪が輝いていた。寝る時や風呂の時すら外したくなくて着けている程に。
それから数年が経ち、俺は文官長に就任した。国政には直接携わらないものの、責のある立場に上がった事には違和感しか覚えない。
風の噂では、イナミは砂の国で皇帝の座に就いたとの事だ。そうだろうと思っている事には驚き様も無い。元より俺はあの最後の日、また会おうだなんて言うイナミの言葉を信じてはいなかった。無理な話だからだ。皇子ならまだしも、皇帝となれば自由に生きて行く事は出来ない。自分の為に生きて行く事を捨て、国や民の為に全てを捧げるのが国を統べると言う事だ。
そんなある夏の日、父から執務室への招集が掛かった。数年ぶりに訪れる父の部屋に、思いもよらぬ人が居るとは全く思ってもいなかった。
「……イナミ」
「久しぶりだ、苑」
より精悍な男となったイナミは月日を感じさせる。以前に会った時よりも豪奢な装いをしている彼は、正に他国の皇帝であるという事を示していた。そして本当に久しぶりに会ったと言うのに変わらないその眼差しに、俺の心が揺れた。
父とイナミ、二人の皇帝の御前に俺は跪く。一体なんだと言うのだろう。
父が口を開いた。
「苑、そなたの輿入れが決まった。隣国の皇帝である此方のイナミ皇帝だ」
「……」
唖然とする俺に、イナミが続ける。
「正確には、私は上皇となり弟が皇帝に就く。国政には変わらず携わる事になるが、表立って立つのは弟だ。だから跡継ぎの事は心配要らない。色々と片付けるのに遅くなってしまい済まないな、苑」
「……」
「苑の意見を聞けず申し訳無かった。しかしこれ以外に道が無かったのだ。もし苑が良ければ私と共に砂の国に来て、私と共に生きてくれないだろうか」
体に駆け巡ったのは、確かに歓喜だった。俺の為にそこまでしてくれているとは知らなかった。
しかし本当にそれで良いのだろうかとも思う。俺は男で、ましてや砂の国なんて行った事すら無い。そんな人間が輿入れして来る等、砂の国の人々にとっては迷惑極まりないのでは無いだろうか。
しかももし、イナミが俺に愛想を尽かしたら俺はどうなる。母と同じ様に狭い世界で病み、儚くなってしまうのでは無いか。
その考えを見透かした様に父が進言した。
「苑、何かあれば帰ってくると良い」
「え?」
「蓮の宮は取り壊しておらぬ。お前が何かあった時は遠慮無く帰ってくると良いだろう。文官の職も一席空けておく」
「取り壊して、いない…?」
嘘だ、と呟く俺に、イナミが微笑む。
「あの美しい宮を取り壊す等勿体ない、と思い国に帰る前、お父上に私が費用を立て替えるから取り壊さぬ様お願い申し上げたのだが、杞憂だった。元よりお父上は取り壊すおつもりが無かったようだ」
「しかし、側室であった母は亡くなっていて…普通はその際に取り壊して閉宮するのが習わしでは…」
父が口を開く。
「普通はそうだ。しかし愛するお前の母とお前の為に造ったあの蓮の宮を取り壊す等、我には出来なかった」
「……」
「苑、済まなかったな。情勢争いに巻き込まれ、当時の我は後ろ盾の無いお前の母に会う事は叶わなくなった。故に表立ってお前に構う事も不可能になったが、今でもお前達母子を愛おしく思っておる」
何という事だ。父は母や俺を見放したのでは無かったのか。驚いて何も言えない私に、父上が立ち上がり近付いて来る。
「お前の幸せを願っておる。何事も無く帰って来ない事の方が良いだろうが、何かあれば頼ると良い」
「父上…」
ほろりと涙を零した俺を、父はしゃがみこみそっと抱き寄せてくれた。
これが最後かもしれないと思うと、涙が止まらない。しかし心は満たされ、暖かかった。
「本当に良いのか」
「何を今更」
この国を出立する日、俺とイナミは蓮の宮を訪れていた。
話は本当だった。入口は封鎖されていたものの、中は綺麗に数年前の蓮の宮そのままが残されていた。砂の国に付いてくると言って聞かない爺は、これを知っていたらしい。中の管理は今も内密に爺が行っているとの事だが、砂の国に付いて来るに当たって後任の使用人がここをきちんと管理すると誓ってくれた。
変わらぬ光景に感動してしまう。美しい水辺と、少し時期が過ぎたがまだ咲いている蓮の花もある。その美しい様にやはり此処が居場所なのだと実感する。
小屋から暫く蓮と水辺を眺めていると、隣にイナミが立った。
「苑のお父上が此処は残しておいて下さるが、俺はお前を此処に返すつもりが無い。それでも良いか」
「良くなければ、最初から体なんぞ明け渡して居ない。本当は……最後のあの日、イナミに付いて行きたいくらいだった」
「苑…」
「しかしそれは無理な話だった。俺は端から諦めていたと言うのに、イナミは本当に俺を諦めないでいてくれた。ありがとう、むしろ本当に俺で良いのか」
「良い」
「俺は男で、以前は女装の様な事をしていたお陰で今でも国内では評判の悪い皇子だが」
「何でも構わない。私は苑の強さと美しさに惹かれた」
面と向かってそう言われた事は無く、驚いてどの様な顔を作ったら良いのか分からなくなった。イナミはそんな俺の顔を覗き込むと、目元を緩めた。そして俺の顔に手を添え、緩やかに口付けを贈られた。
「共に生きてくれ」
「勿論」
「愛している」
「……」
返事の変わりに俺はもう一度イナミに顔を寄せた。
もう蓮の宮をこの目で見る事は無いだろう。この男が俺の手を離さないでいてくれる限りは。今はそれが信じられる事が、幸せだった。
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