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そして、彼は貢の急なお休みの理由を詮索しなかった。
* * * *
――会長室に着くと、母と小川さんが仲よさげに仕事に励んでいた。
母がいるのはいつもの光景でわたしも見慣れていたけれど、いつもはいない小川さんもいるのはちょっと不思議な光景に思えた。
「――あ、会長! お疲れさまです」
「絢乃、お疲れさま」
わたしの足音にいち早く気づいた小川さんが明るい声で挨拶してくれて、それに続いて母も声をかけてくれた。
「うん、お疲れさま。――ねえママ、桐島さんが有休取った理由、何か聞いてる?」
母と交代する形で自分のデスクに着いたわたしは、彼が急に会社を休むことになった理由について訊ねた。
「いいえ、私は何も聞かされてないわね。小川さん、あなたは?」
「私知ってますよ。彼、どうも引き抜きの話が来てるらしくて。今日はその会社の見学に行ったみたいです」
「……引き抜き? 初耳よ、そんな話。どこの会社から来てるって?」
わたしは眉間にシワを寄せて小川さんに問うた。別に彼女に八つ当たりしたかったわけじゃない。大学の先輩だった彼女には話せて、どうして恋人で上司でもあるわたしには話せないのかと貢に怒っていたのだ。
「えーと、どこだったかなぁ……。名前は忘れましたけど、コーヒー飲料メーカーだそうですよ。新商品の開発チームに来ないか、とか社外取締役に迎えたい、とか何とか」
彼女は自分の持っている情報を出し惜しみするつもりはなかったらしく、すんなりと教えてくれた。
「会長に話していないのは、彼自身がまだ結論を出せていないからじゃないでしょうか。ちゃんと答えが出てから打ち明けるつもりなのかもしれませんね」
「それって……、彼がまだ迷ってるってこと?」
彼に即決する意思がないことにホッとしつつ、わたしは首を傾げた。
出会った日、わたしに語ってくれたとおり、彼はこの会社を愛している。けれど、彼のコーヒー愛がどれだけ深いのかもわたしはよく知っていた。
そんな彼にとって、大好きなコーヒーに関わる仕事なら是が非でも飛びつきたいだろう。でも、真面目な彼はそれが会社への、もしくはわたしへの裏切り行為になるんじゃないかと悩んでいたらしいのだ。
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