雨降れば……

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 スマホの向こうから、彼のうろたえている声が聞こえてきた。彼もどうやら、引き抜き話の件をわたしに黙っていたことを気にしていたようだ。 『あの…………、もしかして小川先輩からお聞きになりました? 僕のヘッドハンティングの話。お話ししていなくて申し訳ありません』 「うん、聞いたよ。その話はまたゆっくり聞かせてもらうとして、今日は別件で電話したの。――今話して大丈夫?」  用件に入る前に、まず彼の都合を確かめるべきだったと反省し、わたしはおずおずと訊ねた。 『はい、大丈夫です。見学はもう終わってますんで、今から帰宅するところでしたから。ちなみに今日は電車です。ちょうど駅に向かっているところで。――で、別件というのは?』 「そう、よかった。あのね、来週の土曜日の夜、都内の経営者が集まる交流会があるらしくて、わたしにも招待状が来てるの。それでね、そのパーティーに貴方も同伴してほしくて。……どうかな?」 『パーティー……ですか。それは業務命令ということでよろしいですか?』 「…………そうは言ってないでしょ。貴方がそう解釈するのは勝手だけど、これはあくまでわたしからのお願いだから」  彼は妙な勘繰りをしたのか、イヤミったらしく(へりくだ)って訊き返してきた。いつからこんなにイヤミな人になったんだろう? とわたしもさすがにムカついた。 「……で、どうなの? 貴方が『業務命令なら同伴する』って言うなら、こっちもちゃんと休日手当て出すけど。わたしはただ、貴方の本心を確かめるために一緒に行きたいだけだから」 『いえ、そこまでして頂かなくても……。分かりました、同伴出席させて頂きます。仕事上ではなく、あくまで僕個人として』 「え……、ホントに? ありがと」  彼からの意外な返事に、わたしは拍子抜けした。その頃のよそよそしかった彼の様子からして、〝仕事〟としてなら渋々承諾するだろうと思っていたのだ。 『そういえば僕たち、この夏からあまり本音で話せてませんでしたよね。僕自身もそれは気にしていたと言いますか、会長に申し訳ないなと思っていたので』  「そう……だったんだ。じゃあ今度の週末、パーティー用の服選ぶのに一緒に銀座行こ! わたしが選んであげる!」  張り切ってそう提案すると、彼の返事はちょっと困惑したような「………………お願いします」だった。 『それで……、会長はどう思われますか? 僕がこの引き抜き話を受けたら』  わたしは今度こそ返事に詰まった。〝彼の恋人〟としての自分と、〝上司〟としての自分の間で葛藤していたのだ。 「……わたし個人としては貴方に行ってほしくないけど、ボスとしては社員が夢に近づくチャンスを引き留める権利はない。これがわたしの正直な気持ちかな。ワガママでごめんね」  こういう時、建前で綺麗事だけをを並べ立てる上司もいるだろう。でも、わたしにそんな芸当はできるはずもなかった。
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