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「――ところで、会長は桐島くんからお聞きになっていないんですか? 引き抜きの件について」
小川さんは不思議そうに眉をひそめた。わたしと彼の交際のことも知っていたので、彼も恋人であるわたしには話しているものだと思っていたらしい。
「うん、何も。彼ったら水臭いよね。そんなに大事な話、どうしてわたしにしてくれなかったんだろう? いくらプライベートでギクシャクしてるっていっても、それとこれとは話が別でしょうに」
わたしも不満たらたらで彼女に答え、ため息をついた。
「多分、絢乃さんに心配かけたくなかったんじゃないですか?」
「それだけならいいんだけど……」
わたしが懸念していたのは、彼があのヘッドハンティングを受け入れて会社を辞め、わたしとも別れる気ではないかということだった。「自分は絢乃さんの相手としてふさわしくないから、他の男性に譲った方がいい。自分は身を引くべきだ」と勝手に思い悩んで。
「――さて、そろそろお仕事始めようかな」
「そうですね。会長、今日は私がお宅までお送りします。タクシーですけど。というわけで、一緒に夕食でもいかがですか? 私のよく行くお店にお連れしますよ」
「へえ、楽しみ! 小川さんの行きつけのお店ってどんな美味しいものが食べられるんだろう? じゃあ、それを楽しみに仕事頑張らなきゃ!」
小川さんの提案が嬉しくて、わたしはホクホク顔で仕事に取り掛かったのだった。
* * * *
――その週末、わたしは貢と二人で銀座へ出かけた。目的はもちろん、その翌週に控えていたパーティーに向けての彼のコーディネートを選ぶため。
スーツからシャツ、ネクタイまで一式選び、支払いはわたし名義のブラックカード。少し前まではそのせいで彼に引かれていたことを気にしていたのに、もうすでに距離を置かれていたその頃にはわたしも開き直っていたのか、まったく気にしなかった。「どうせもう引かれているんだから」と。
ついでにわたしが着るドレスも新調し、翌週の土曜日を迎えた。
「――というか、僕って絶対にこの場で浮いてますよね」
会場に集まっていた顔ぶれは錚々たるもので、社交界や経済界の大物と言われる人たちの姿もあった。多分、日本屈指の大企業グループを束ねるわたしもその中に名前を連ねられているんだろう。
そんなすごい場所に、同伴とはいえ一般人の身分で紛れ込んでいた彼がそうボヤいたのもムリはなかったかも。
「そんなことないって! 貴方だってちゃんとドレスコードを守ってこの場に来てるんだもん。ちゃんと周りに溶け込めてると思うよ、わたしは」
わたしは励ますように、彼の背中をポンと叩いた。
わたしが選んだコーデはダークグレーのスーツにブルーのカラーシャツ、ネクタイはグリーンがベースでネイビーのチェック柄が入ったもの。普段、仕事の時にはシャツの色も淡色系で無地のネクタイをしていることが多い彼にしては、このコーデはなかなか攻めているんじゃないかという自信がわたしにはあった。
「そう……ですかね? 絢乃さんがそうおっしゃるなら……」
彼は照れたように頭を掻いていた。
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