雨降れば……

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 ちなみに、その日はわたしのことを「絢乃さん」と呼ぶようにと彼に釘を刺してあった。経営者の交流会なので半分仕事ではあったけど、会社にいるわけではないので役職呼びはおかしいだろうと思ったのだ。  その日の彼は会長秘書としてではなく、恋人としてわたしに同伴出席してもらっていたから。 「うん、よく似合ってるよ。ここにいるどんな男性よりもステキ」 「……ありがとうございます。絢乃さんのお召し物もステキですよ。今日は一段と大人っぽく見えます」 「ありがと。っていうか、法律上はもう成人だし」  わたしはサーモンピンク色のマキシ丈のドレスに、メタリックなピンクのハイヒールを合わせていた。ドレスはフレンチスリーブだったので、上から白いモヘアのボレロを羽織って。  髪は下ろした状態でウェーブをかけ、パーティー用のメイクもして、胸元には彼から贈られた宝物のネックレス。 「――ところで、もう返事したの? あの話」  この質問も、もう何度彼にぶつけたか分からない。そのたびに彼は「いえ……、まぁ……」とお茶を濁していたので、果たして引き抜きの話を受けたのか蹴ったのか、ちゃんとした答えをまだ聞いていなかったのだ。 「……はぁ、実はまだ迷っていまして……」  ビュッフェコーナーで料理を選び、テーブルに着いてそれを味わいながら彼に訊ねると、彼はフォークを握ったまま困ったようにまた唸った。 「そりゃあ、大好きなコーヒーに関われる仕事だもんね。断るのはもったいないって気持ちもあるでしょ。でもウチの会社を辞めたくないっていう気持ちもある、と」  彼に退職の意思がないことは、その日までの間にわたしも分かっていた。それはそれで、企業のトップとしては嬉しいことだったけれど、こんないい話は二度とないかもしれないのに……と思うと何だかもったいないなとも思った。 「貴方がそういう仕事に関わりたいなら、ウチのグループで新しく事業を始めてみてもいいかなって思ってるの。それなら貴方もウチを辞めなくて済むでしょ?」  他社さんでできる仕事が、ウチのグループでできないはずがない。ないならイチから始めればいい。そのために必要な資金も設備も人材も、ウチほどの大財閥ならいくらでも確保できるのだから。 「えっ、いいんですか!? 絢乃さん、ありがとうございます! じゃあ僕、あの話はお断りします。今決めました」 「そう、よかった」  決意を語ってくれた彼の表情は晴れ晴れとしていて、わたしもやっと心穏やかになれた。これで最悪の事態だけは避けられたわけだ。……とりあえずは。 「――あれ? 君、篠沢グループの会長さんでしょ?」 「…………はい? そうですけど……」  唐突に馴れ馴れしく話しかけてきた若い男性に、わたしはたじろいだ。
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