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旅立ちの朝
旅立ちの朝、僕は浮き足立って階段を降りた。一階の倉庫の方から微かに耳馴染みの深い音楽が鳴っているのが聴こえた。
確か……ジェフ・バックリィって人の曲だ。
作業場の灯りが点いていた。そっと覗くと叔父さんはバイクを点検していた。没頭しているその後ろ姿に声を掛けることが出来ず、僕はずっと丸めた背中のネルシャツのチェック柄を見つめていた。
叔父さんの傍らに置かれたステレオカセットテープレコーダーからは『ハレルヤ』って曲が流れていた。
叔父さんが僕に気付いて振り返った。笑顔に変わる一瞬の間に泣いているような表情が見えた。なんでだろうと思ったけれど、この曲が哀しいからなんだろう。僕もこの曲を聴くと泣きそうになる。
「あら、二人とも今日は早起きなんだね」
流れている音楽に合わせ鼻歌をハミングさせながらやって来た美咲さんが、泣きそうな顔の僕らを不思議そうに見て言った。
「もうそんな時間か……おはよう」
立ち上がった叔父さんは背伸びし、大きく口を開け、目尻に残った涙を欠伸のせいにした。
食卓に向かいながら、油汚れの手を首に巻いたタオルで拭きちゃぶ台の前に腰を下ろした。
「ちゃんと手を洗ってきなさいよ」
と美咲さんの叱咤が飛ぶ。
僕はスマートフォンを取り出し、味噌汁と白米と焼き魚と生卵の典型的な日本の朝食の並んだ卓上を写真に収めた。普遍的な何気無さってものは見方を変えると時折感動をくれる。
「ノボル、食事のときは携帯電話いじるの止めときなさい」
美咲さんは毎度の如く叱咤してくる。
「朝食が素敵だからちょっとバズるかなって思ってさ」
僕がそう言ったときには既に短い呟きと画像はSNSにアップ済みで、それを見た友人から「イイね!」のレスポンスが寄せられていた。
もちろん一番乗りは彼女の小春だった。
僕は掌の中の画面を見つめて、遠距離でも心が繋がっている嬉しさに笑みを隠しきれなかった。
「どうしたのノボル? 注意されてんのにニヤニヤして」
美咲さんは興味津々の表情で僕に顔を近付けスマートフォンを覗き込んでプライバシーに干渉してきた。
叔父さんが黙って首を横に振った。美咲さんはペロっと舌を出して元の姿勢に戻った。僕より一回りも年上なのに仕種が少女みたいで、なんだか胸が高鳴った。昔抱いた恋心に似た感情が少しだけ喚起した。
「神戸は楽しみだけど、ちょっとの間だけ先生の作った食事が食べられないのは辛いなあ」
僕は言った。
「あらノボルいつからそんなお世辞言えるようになったの? でも、もう先生って呼び方は嫌だなあ。だって私はここの家族になるんだよ」
美咲さんは婚約指輪をはめた手を前掛けエプロンで拭いながらそう言った。
それは昨晩の焼肉のテーブルを囲んだ色気のないプロポーズで叔父さんから貰ったものだ。
美咲さんの食事が特段に美味しく感じるのは管理栄養士や調理師の免許を持っているからだけではない。感情の機微を読み取って今なにを食べたいかを当ててしまうからだ。他に教員免許も取得し、児童心理学も学んでいた。それは彼女の父母が営む学童保育所の運営に大きく役立っていた。
僕は小学生の頃からそこで彼女に放課後の面倒を見て貰っていた。だから先生と呼ぶのが習慣になって抜けない。
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