エンジニア・ブーツ

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エンジニア・ブーツ

「じゃあ、そろそろ出掛けるよ」  僕は言った。 「ちょっと待て。仏壇に手を合わせていけよ」  と叔父さんから肩を叩かれた。  申し訳程度に供えられた仏壇の小さな扉を開き、祖母と母親の写真に一瞥した。残念ながら僕は彼女たちと言葉を交わした記憶がない。なぜ父親の遺影がないのかも気にも留めなかった。僕は彼の顔を知らない。  本当の父親には申し訳ない話だが、物心ついたときはもう叔父さんが父親代わりにインプリンティングされていたし。間柄はどうであれ親子以上の親密さで互いに支えあって生きてきた。  僕は生まれたばかりの僕を残して死んだ両親のことを知りたいと思ったことはないし、引き取って育ててくれようとしなかった祖母を慕う気持ちもない。恨む気持ちもないが。  寂しさを感じたことはなかった。それは叔父さんや美咲さんの親なる献身を感じて日々を過ごしてきたからだ。  僕は溜息を吐きながら仏壇に背を向け、店先に向かった。 「ノボル。バイク乗るならこれ履けよ」  叔父さんはコンバース・オールスターの黒いハイカットスニーカーを履こうとしていた僕にブーツを渡した。 「ブーツは好きじゃないよ。足に馴染むまで硬くて痛いし……」  渋る僕が受け取ったのは叔父さんが昔に履いていたレッドウイングのエンジニアブーツだった。アッパーの皮革は履き皺だらけ傷だらけだったが、何度も擦り込まれたミンクオイルで手入れが行き届いて、ビムラムソールが張替えられ新品にリペアされていた。スキニージーンズの裾幅が細いのでブーツの中に裾を押し込みながら履いた。驚くことにまるで自分が長年愛用していたかのように足に馴染んだ。それは軽くなる足取りを戒めるようなズッシリとした重みだった。    店の古物の列を抜け戸外に出た。叔父さんから譲り受けたヤマハのバイクは新しい命を吹き込まれた立派な姿に生まれ変わって旅立ちを即すように店先の路肩に置かれていた。僕は磨かれたそれを黙って眺めていた。 「おい、ノボル。ちょっとオンブさせろよ。ホレホレ」  いきなり前に立った叔父さんがそう言いながら中腰の姿勢で座った。 「いけー出発進行!」  美咲さんがその背中に飛び乗って叫んだ。 「おまえじゃないよ、ノボルだよ」  首に回した美咲さんの腕を振り解きながら、叔父さんは急かした。 「なんで急にこんな恥ずかしいことやらせるんだよ。なんだか夕べから変だよ叔父さん」  僕は店先を行き交う通行人の目を気にしながら渋々その背中に乗った。 「こうやって背負うのは小学生の時以来か? 想像していたよりも重くなったな」  叔父さんは僕の重さを確かめるように数歩進んで僕を下した。 「今度はこいつに僕の重さを確かめてもらう番だ」  と言いながら僕はバイクに跨った。ヘルメットを被り、キックスターターを踏み込んだ。エンジンが空気を吸い込む音がし低い雄叫びを上げた。僕も雄叫びを上げた。  叔父さんが何も言わず僕の頭を優しく撫でるようにヘルメットの額の部分にステッカーを貼った。 「なにすんのさ」  そう言いながら僕はバックミラーに額を写しステッカーの図柄を確認した。そして、それと同じロゴの『東海林商店』の慣れ親しんだ店の看板を見上げた。  昔その看板が出来上がったのを見て「どうせなら屋号改めて『東海林昇次商事』にすりゃあよかったかな」と叔父さんがふざけていたのを思い出した。  待たされたバイクはボンボンボンとアイドリングの咳で急かしていた。アクセルを回すと静かに走り出した。  僕は後ろ手を振った。その看板と叔父さん、そして寄り添う美咲さんに別れを告げるように。  小さく見えなくなるまで手を振っていた叔父さんは、膝から崩れ座り込んだ姿でバックミラーから消えた。
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